菅田将暉の『Cloud クラウド』にある爽快さ;「ここは地獄の入口か」
『Cloud クラウド』(2024・黒沢清監督)
映画評論家・内海陽子
額に汗して働くことがどうして重んじられるかと言うと、当人に貴重な収穫があるからだ。その逆に、手軽に大金を稼ぐことが軽んじられるのは、当人の心がむしばまれるからだ。異論もあるだろうが、これは基本である。そして、人の心がむしばまれる過程を巧みに描いてきたのが黒沢清監督であり、この『Cloud』はそのシンプルな構成において彼の初期作品を思わせる。すべてを描く必要はない。登場人物のある一面、ちょっとした表情を切り取れば十分だ。観客はそこから想像力を刺激され、悪夢を堪能する。
吉井良介(菅田将暉)は、クリーニング工場で地道に働きながら、これはと思う製品を安く買い付け、高い価格で転売する仕事に手を染めている。今しも、下町の工場で開発したが思うように売れなかったイオン電子治療器を買いたたき、数10倍の価格でネット販売にかけている。これがうまく行けば人生が変わるかもしれない。恋人の秋子(古川琴音)との将来も開けそうだ。吉井にこの仕事を教えたのは、高等専門学校時代の先輩・村岡耕太(窪田正孝)で、いっとき転売屋として成功したが、いまは落ちぶれている。
クリーニング工場の社長・滝本(荒川良々)は、吉井の精勤ぶりを買っており、管理職として自分の片腕にしたいと熱心に口説くが、吉井にその気はない。イオン電子治療器の転売に成功し、運が向いてきたと感じた吉井は、村岡や滝本から逃れたい気持ちもあり、群馬県の山間にある元別荘に転居することを決める。わずらわしい人間関係を断ち、安アパートから脱出したいという吉井の気持ちはわかるが、見知らぬ土地での転売屋稼業がいかに危険なものかを彼はまだ知らない。
バスに乗った吉井と秋子が楽しげな会話を交わしている最中、ふと気づくと二人の背後を黒い影がおおい、それは人間の形を成してバスを降りていく。黒沢清ならではのなんともまがまがしい独特の影が動き出したのだ。吉井と秋子の見知らぬ土地での新生活は早くも暗雲が垂れ込めている。事態はもう動き出して止めることはできない。吉井は何者かに選ばれたのか、何者かの罠にかかったのか。いずれにせよ、それは彼の宿命である。
吉井は転居先での新規開業にあたり、地元に住む佐野たけし(奥平大兼)をアルバイトとして雇う。彼は仕事をきびきびとこなし、性格も明るい。吉井はほっとするが、この土地で歓迎されていないことがやがてわかる。2階の窓ガラスが外から割られ、警察に相談に行っても対応はよくない。それどころか、転売屋稼業について根掘り葉掘り聞かれ、警官官の態度はまるで犯罪者を見るようだ。吉井の存在はこの地で目立つ。これはちょっとした誤算ではすまず、事態はとんでもない方向に転がっていく。
普通の人間でもいつどこで誰に恨まれるかわからないが、吉井の場合、明らかに相当数の敵を作っていた。下町の工場主・殿山(赤堀雅秋)を筆頭に、吉井にニセモノをつかまされて怒り心頭に発するネット住民、直接吉井とかかわりのない人までもが、“吉井狩り”に名乗りを上げ、彼の住居を襲う。彼らの襲撃は無計画で直情径行で命知らず。誰かが煽るように言う「ゲーム感覚でいい」という言葉に踊らされ、嬉々として銃器をぶっ放す。
このシーンが延々と続く。無計画なシロウト集団の襲撃なので、突発的な事態が連続して、何がどうなるか見当がつかない。襲撃者の大半がやぶれかぶれだ。家に積まれた商品が無事であるかどうかを気にする吉井だけが現世の利益に囚われており、その他はあの世の人になっているようなものだ。吉井が何者かに選ばれたのだとすれば、それは彼が具体的な欲望をしっかり持っているからであり、何者かの罠にかかったとすれば、吉井がその罠から首尾よく逃れるだけの運と技を持っているかどうかをためされているだけだろう。
「ここは地獄の入り口か」。吉井が諦めたように口にする言葉には解放感がにじみ、選ばれた者、あるいはためされている者の武者震いのようである。若きメフィストフェレスというべき佐野を演じる奥平大兼の落ち着いた挙措が際立ち、菅田将暉=吉井を包み込むようである。世の中で確かなものは“悪意”だけか。諦めとともに、わたしもすっきりした解放感に包まれる。
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内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
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