『本日公休』が描き出す理髪師アールイの人生;「後頭部をみればなんでもわかる」

『本日公休』(2023・フー・ティエンユー監督)

 映画評論家・内海陽子

 小さいころ、親戚のお姉さんによく髪を切ってもらった。とてもきれいな人で緊張したが、彼女が髪を触る手はやさしかった。その後、何人もの理髪師や美容師に髪を切ってもらったが、やはり、触り方のやさしい人が一番だと思うようになった。触り方のやさしい人は、そもそも人間がやさしい。どんな分野で生きるにしても、やはりやさしさが一番大事だ。

 当然のことだが『本日公休』のヒロイン、理髪師アールイ(ルー・シャオフェン)はきれいでやさしい。お客を甘やかすわけではなく、ひとりひとりの客に誠実に接することを心がけている。客の後頭部を見ればなんでもわかると自負しており、頭の中に客のカルテができている。「私の散髪はモルヒネのようだと客が言う」と自慢しても可愛い。そんなある日、長年の常連客、元歯科医のコ先生が来ないので電話すると、どうやら倒れたらしい。

 アールイはただちに出張することを決意。彼女には3人の子がいるが、美容師をする次女リン(ファン・ジーヨウ)の別れた夫、チュアン(フー・モンボー)が息子を連れて散髪にくるので、彼と最も親しくしている。チュアンは自動車整備工で、リンとの仲はわるくなかったが、彼の人の好さがリンの癇に障るようだった。新居に住むために夫婦で貯めた資金を、無断で幼なじみに貸してしまったことをリンはどうしても許さない。「ノーと言えない男、優先順位をつけられない男」とリンに言われればその通りのチュアンだが、どうやらアールイは、そんな彼のやさしさを買っている。彼には出張することを告げてマイカーの整備を頼んだ。

 中盤までは、アールイの家族のあれこれをユーモアたっぷりにつづり、現在の台湾の庶民の事情を浮き彫りにする。長男ナン(シー・ミンシュアイ)は腰が定まらず、今は自動掃除機や太陽光発電の事業に手を染めている。アールイは呆れながら、彼の話を聞き流す。台北に住む長女シン(アニー・チェン)は映像関係のスタイリストをしているが、どうも男運がよくないようだ。母親としてさまざまな思いはあるが、それぞれの道を行く子供たちを遠くから眺めているような心地だ。子は親の思い通りにならない。

 出がけにあたふたして、携帯電話と用意したお茶を忘れたアールイ。勝手がわかっている店の中と違い、久しぶりの運転で郊外へ出てみれば不安がつのる。美しい緑の田園風景の中、ぼさぼさ頭の男(チェン・ボーリン)が太陽光エネルギーで沸かした湯でお茶を淹れてくれる。それを心から楽しんだ彼女は、彼のぼさぼさ頭を刈りこむことにエネルギーを費やし、結果に満足して元気になる。人の髪を美しく調えることはアールイの生きがいである。

 途中、ちょっとした交通トラブルに見舞われるが、アールイを「おばさん!」と懐かしげに呼ぶ男のおかげで大事に至らずに済む。彼はかつてアールイに髪を切ってもらっており、チュアンとは中学が同じだそうだ。アールイ一家のことが好きなのだろう。それは、アールイとチュアンのやさしさが彼の心に強く印象づけられている証拠だ。むろんコ先生の家での一部始終は想像をはるかに上回る美しさで、コ先生の髪にやさしく触りながら、先生とのいくつもの思い出を語るアールイは、自分の生きてきた道のりそのものを語っている。なぜ、遠くまで出張してコ先生の髪を調えたかったのか。それは彼女の仕事だからではない、彼女の大事な恩返しだからである。

 やがて、アールイの子供たちにも変化が訪れる。なんとチュアンにも新しい人生が始まることがわかる。それを聞いたアールイが彼に渡す赤い紙包みは特別なもので、中味についてチュアンに知らせる必要はなく、アールイは「幸せになるのよ」と声に力をこめる。この赤い紙包みを大事にして、きっとチュアンは明るい未来へと向かうだろう。さりげないこのシーンが、わたしには真のクライマックスに思える。

 ところでアールイの店には一匹のキジトラの猫がいる。彼女の回想の中で、店を開店したときにもこのキジトラの猫がいたことがわかる。開店からずいぶん年月が経っているはずだから、この猫はリアルに存在するものではないだろう。あくまでも思い出の存在か、あるいは亡き夫の化身か。特別な説明もないまま、自然にしとやかに存在するこの猫が、映画の懐かしさ、豊かさを象徴していて余韻が深い。

◎9月20日より公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

 

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