さらさらとした母の愛の大きさ;『ぼくが生きてる、ふたつの世界』は聴覚障害の両親をもつ少年の成長記

『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(2024・呉美保監督)

 映画評論家・内海陽子

 数人の聴覚障碍の人たちとエレベーターに乗り合わせたとき、楽しそうに手話でおしゃべりする様子に見惚れたことがある。言葉が盛んに行き交っているのに静かで、じゃまにならない。いや、少し違う。聞き耳を立てても、目を凝らしても、話の内容がまったくわからないのがなんだか悔しく、その人たちが特権的立場にいるように感じられた。

 むろん、そんな感慨は健康な耳を持つ者の思い上がりだ。その人たちはわたしが盛んにおしゃべりをしても聞こえない。それどころか、自動車などが発する危険な音を察知できない。想像すると、生きることはかなり命がけだとわかる。そういう両親のもとに生まれ、生きることになった耳の健康な子供をコーダと呼ぶ。アカデミー賞を受賞した『Coda コーダ あいのうた』(2021・シアン・ヘダー監督)で一気に知られるようになったが、これは歌の才能を持つ少女が家族から巣立つまでの物語で、平凡なコーダの話ではない。

『ぼくが生きてる、ふたつの世界』は、平凡な男子・五十嵐大がどうやって「ふたつの世界」で生きて行くことになるかを丹念な描写を重ねて見つめる。五十嵐大という男児の誕生から小学生になるまでを数人の子役が演じ、中学生になってからの五十嵐大を吉沢亮が引き受ける。彼に押し寄せるさまざまな苦難(多くは無理解によるもの)に、思春期の彼が打ちひしがれる姿があわれだ。この時点で「俺、こんな家に生まれてきたくなかったよ」と叫ぶ彼の気持ちがよくわかるようになっている。

 彼の転機は、故郷を離れて東京のパチンコ店に勤めていた時にくる。店内での大声の喧嘩に気づかない女性に目を留めた大は、彼女が聴覚障碍者だと気づく。闊達な彼女の役に立ったことは大の喜びになり、手話サークルに参加し、数人の友ができる。その友だちと飲食店で会食した際の描写がいい。遅れて席に着いた大は、追加注文する役を引き受け、てきぱきとさばいたつもりになるが、友のひとりにそっと注意される。私たちに過剰な手助けはいらない、筆談をすればすむと言われ、大ははっとする。長らく両親と外界との懸け橋になり、通訳として生きてきた彼はいくぶん尊大になっていたのだ。

 言葉には限界がある。手話にはさらに限界がある。大と母・明子(忍足亜希子)が世間の無理解に意気消沈した時、母が喫茶店でイチゴパフェを食べさせてくれる。後年、大は父・陽介(今井彰人)との会話で、父と母が東京に駆け落ちしたということを知る。あてにした友人が現われず、二人で新宿のフルーツパーラーでパフェを食べたという。そのパフェの美味しさが忘れられないという父の回想と、母が食べさせてくれたイチゴパフェの記憶が重なる。その後、父と母は交際を認められたそうだ。母は、自分が支えにしてきた喜びを大にも味あわせたかったのだろう。大はそうやって時間をかけて母の愛情を受け取る。

 映画にはもうひとりの母が登場する。明子の母(烏丸せつこ)だ。彼女は手話を覚えようとせず、宗教にすがっている。娘の障碍をなかなか受け入れられなかったのだろう。明子は中学生になってからようやく、ろう学校に通うようになり、明るくなったという。明子の明るさと気性の良さはみずから獲得した大きな宝であり、陽介との交際と結婚が彼女をさらに前向きにさせ、大の誕生はどれほど大きな喜びであったことか、ということがじわじわ伝わってくる。呉美保監督の演出はきびきびしており、被害者意識がふくらむことはなく、説教がましい押しつけはみじんもない。

 吉沢亮は、手話と普通の会話を使い分けるだけではなく、人と人との関わりの中で、大という男の複雑な思いを吐露したり飲み込んだりすることに労をいとわない。大が困難に直面した際に助けてくれるのはいつも母の存在であり、母の記憶である。母から離れて暮らすことで大はどんどん母に近づいて行く。母の愛情は想像を絶する大きさになり、彼を包んで息を詰まらせるほどになる。そういうことを吉沢亮は明瞭に表現してのける。

 明子を演じる忍足亜希子の素晴らしさは言うまでもない。聞こえない耳で赤ん坊の世話をする苦労も、聞こえないというだけで軽侮される屈辱も表に出さず、一心に大を想って生きる姿が熱演にならない。さらさらとやさしいのである。大が母の真の大きさに気づくようすを見たとき、わたしも特別な愛に触れた気がした。

◎9月20日より全国順次公開

内海陽子プロフィール

1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら

 

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