チホとイルヨンの恋物語が胸に迫る!;『マイ・スイート・ハニー』はジワリと泣かせてくれるコメディ
『マイ・スイート・ハニー』(2023・イ・ハン監督)
映画評論家・内海陽子
二人の男女のつきあいは、一緒に食事をする“食べ友”として始まった。といっても実際はシングルマザーのイルヨン(キム・ヒソン)がお堅い研究員チホ(ユ・ヘジン)を気に入って交際を申し込んだに等しい。それにぴんとこないチホが遅ればせながらイルヨンに恋心を抱き、どうにかゴールにたどり着くまでのお話である。先は見えているから、楽しむべきは彼らの日常そのものだ。美男とは言えないチホと、身なりは質素だがチャーミングなイルヨンのかみ合いそうでかみ合わない行動が、観客をとことん楽しませてくれる。
菓子メーカーの開発研究員チホは孤独な独身男。ある日、賭博好きな兄ソクホ(チャ・インピョ)の借金の肩代わりに訪れた金融会社でイルヨンに出会う。明るく積極的な彼女に食事に誘われ、チホは生まれて初めて女性と語らう喜びを知る。会社の菓子を試食する以外はハンバーガーの味しか知らないチホにとって、イルヨンとの“食べ友”の日々は天にも昇る喜びだが、そこから先、どうしたらいいかわからない。
ある日、日曜日の予定は?とイルヨンに聞かれ、朝起きてテレビを見て寝て、また起きてテレビを見る……と答えるチホは「純真なのかバカなのか」と社内で噂されているだけのことはある。しかしイルヨンは辛抱強い。二人で海へドライブし、ごく当たりまえのカップルのように浜辺に向かって走るシーンが現われるとほっとする。二人が入った食堂の老店主が、きわめてゆっくり生ビールをテーブルに運ぶシーンがおかしいが、それが二人の恋のスピードを象徴している。
この手のもどかしい恋物語になくてはならないのが、ちょっとした障害物(人)で、チホの場合は兄のソクホだが、イルヨンの場合は愛娘とその父親である男だ。兄のソクホが若き日にぐれてしまったのには家庭の事情があり、チホにはそんな兄の保護者のような側面がある。活発なイルヨンは、若き日の恋のつまずきを悔やんでいるが、その男ときっぱり縁を切れずにいて、大学生の娘はそんな母にイライラしている。むろん、多少手間取るものの、ロマンティックコメディであるから、それぞれはめでたく着地点を見出す。
それよりもこの映画の一番の魅力は細部のどうでもいいような繰り返しにある。行きつけの薬局に行ったチホが「心臓がドキドキするんです」と薬剤師に訴えれば、薬剤師の女性は「心臓ですから」と答える。ありふれた対応だが、その薬剤師を演じる女優のとぼけたたたずまいとあいまってなんとも心くすぐられる。薬剤師は、ちょっと江口のりこに似たイメージがあり、関西のコントは同じシチュエーションが何度も繰り返されることを思い出す。観客が飽きなければ大成功だ。この映画の薬剤師ももう一回見たいと思わせる。
チホとイルヨンが行きつけになる「キンパ天国」という食堂では、いつも近くのテーブルにいる若いカップルが、チホとイルヨンの会話に耳をそばだてている。常に敏感に反応する男と、それをたしなめるようでいて一緒に笑っている女。このカップルはチホとイルヨンが来るのを楽しみに、時刻を見計らって毎日待ち構えているのではないか、と思わせる。他人同士のそういう関係があってもいいではないか。
こういうくすぐりの中で魅力的に浮かび上がるのは、チホという男のはにかみである。演じるユ・ヘジンはアクションを得意とする名バイプレーヤーとして知られるが、彼の演技には手馴れた様子がみじんもない。プロの演技者なら当然のことだろうが、ほんとうに愛情表現がわからず戸惑っている朴訥な男に見える。しかも退屈な男ではないということがわかる。イルヨンの住居前にひとりたたずむ彼を遠目に見れば、アクションで鍛えた姿が非常に美しくハッとさせられる。こういう男を応援しないではいられない。
若い男女の恋物語が美しく見えるのは当然だが、中年を過ぎた男女の恋物語がごく自然に胸に迫るというのは格別な感慨がある。おまけに、エンディングのなんというあでやかさ! この映画の世界に飛び込んでそこの住人になってしまいたい、と思うチャーミングな図が待っている。あなたもぜひのぞいてください。
◎2024年5月3日より全国公開
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
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