底なし沼に足を踏み入れたヒロイン;『アンテベラム』の終わらない感情
『アンテベラム』(2020・ジェラルド・ブッシュ&クリストファー・レンツ監督)
映画評論家・内海陽子
先祖の記憶が自分の現在に影響を及ぼすというのは、よほど強烈な生き方をした先祖がいる場合だ。かつてのアメリカ南部の奴隷とは比べものにならないが、わたしの母方の祖母は明治時代に生まれた元製糸工女で、奉公先の製糸工場から3度脱走した経験を誇っていた。その後、縁あって東京に嫁いできたが、脱走を助けてくれた人もいてよほど運がよかったのだろう。
わたしが彼女だったら、川を渡ろうにも泳げなくてつかまり、また工場で働いて肺結核を患って終わりだったと思う。幸いにもわたしは感度がわるいせいで先祖の記憶に支配されていないが、この映画のヒロインは頭脳明晰で感度抜群、歴史を学び、それゆえに先祖が奴隷だった時代の悪夢を見るようだ。自身で悪夢を作り出しているのかもしれない。映画はその「悪夢」から始まる。
美貌ゆえに、プランテーションを仕切る軍人の寵愛を受けているエデン(ジャネール・モネイ)。彼女は幾度も脱走を試みているらしく、この軍人は“じゃじゃ馬ならし”を気取って歯ごたえを楽しんでいるようだ。完全に自由を奪われた彼女の人生はお先真っ暗で、新しく連れてこられた女奴隷がしつこく彼女を頼るのもわずらわしい。絶望の底で眠りに落ち、目覚めたとき、そこは現代のアメリカで、彼女はヴェロニカ・ヘンリーという名の小説家で夫と娘がいる恵まれた女性であった。ベストセラー作家であると同時に優秀なオピニオン・リーダーであり、ニューオーリンズでの講演を控えていた。
悪夢の影響なのだろうか、ヴェロニカが白人女性ジャーナリストの取材を受けると、彼女はプランテーションの傲慢な女主人によく似ている。気を取り直して出発するが、到着先のホテルでは、フロントの白人女性のあからさまな黒人蔑視の対応に遭う。講演そのものは大好評だったが、その後に訪れた予約先のレストランでは、調理場に近い格下の席に案内される。ただし闊達な女友だち二人が一緒で、特に大柄な黒人の友は覇気があり、ユーモアとパワーで不快な状況を切り抜けてみせる。夜の街に繰り出すというハイテンションな二人と別れ、ヴェロニカはホテルに帰ることにするが、それにしてもなんだかおかしい。
このへんはネタバレになりそうで慎重に書かなければならないが、実はネタをばらそうにも合理的な説明が難しい展開なのである。この時点では、どうやら悪夢がじわじわと現実化しているようなあんばいだ。乗り込んだ車は予約した車ではなく、ヴェロニカは白人男女に拉致されたとわかる。連れ去られた先は夢に出てきたプランテーションで、彼女はエデンという女になっている。彼女はタイムスリップでもしたのだろうか。だとすれば、いつそれが起きたのだろう。それともこれは奇妙な「悪夢」の続きなのだろうか。
この先は観客ひとりひとりに解釈が委ねられる。受ける衝撃もさまざまだろう。猛烈な怒りを覚えたヴェロニカ=エデンのすさまじい行動を、わたしは呆気に取られて見守るが、ひとによっては彼女の怒りが乗り移り、居ても立っても居られない衝動に駆られるだろう。ここにあるのは、人種差別という通りいっぺんの言葉遣いが能天気に思えるほどの、差別者=支配者側の、被差別者依存症とでもいうべきどす黒い感情である。
この映画のポイントを示すような、白人男のヴェロニカ=エデンに向けた言葉がある。「これで終わりではない……目には見えんが、我々は無数にいる」。他人事とは思えない気持ちにさせられてぞっとする。支配すべき被差別者を失うまいとする、邪な感情がそこここに渦巻いている、と彼は言っているのだ。「やかましい黒人は疫病だ」という別の発言もある。「やかましい女は疫病だ」とも聞こえてわたしはまたぞっとする。自分が思った以上にヴェロニカ=エデンの感情に共鳴していることに気づく。
終わらない感情というのが歴史なのである。だから、まるで先祖の記憶に支配されているような感情が育ってしまうことがある。たとえそれが思い込みにすぎなくても、思い込んだら存在してしまう、存在させてしまうのである。このままいつまでたってもけりがつきそうにない。ヒロインはどうやら歴史の底なし沼に足を踏み入れてしまったらしい。
◎2021年8月27日より公開中
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
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