弱い人間への労りのまなざし;波瑠の『ホテルローヤル』
『ホテルローヤル』(2020・武正晴監督)
映画評論家・内海陽子
わたしはホテルに勤めたことはないが、デパートに勤めたことがある。どちらもお客を迎える表のエリアは華やかだが、従業員が行き来する裏のエリアは殺伐としている。高級ホテルに行って好奇心から裏階段を使ったりすると、デパートに勤めたころの気分が甦る。わたしが勤めていたデパートは、出勤時、従業員はエレベーターを使うことが許されず、裏階段を仕事場のある7階まで駆け上がるのが常だった。なかなかいい運動になったが、夏は汗が噴き出し、ときおりめまいがした。
それに比べると、この『ホテルローヤル』の従業員エリアはなかなか風情がある。洗濯場とボイラー室を兼ねたようなところで、従業員の憩いの場所でもある。長年勤めているミコ(余貴美子)と和歌子(原扶貴子)が大福や饅頭をほおばりながら、お茶を飲んでおしゃべりを続け、ときおり通風孔から漏れてくる客室内の会話と物音に耳を傾ける。二人はホテルの清掃員として、お客に快適かつ刺激的な場を提供することに満足している様子だ。この映画の主人公は彼女たちだという気がしてくる。
雅代(波瑠)は釧路のラブホテルの一人娘で、高校生の頃までは不機嫌な第三者の立場にいた。色香十分の母(夏川結衣)が若い男と駆け落ちした後、父(安田顕)の素行もあやしくなり、やむなくホテルの跡取りとして本格的に手伝うことになる。美大への進学は叶わなかったが、彼女が描いた釧路湿原の風景画を父が満足げに見やるシーンがあるから、美術の才能は父譲りなのだろう。娘を美大に行かせられなかったことも父の挫折の一因だろう。何はともあれ雅代は二人のベテランとともにホテル運営に乗り出す。
ホテルの性質上、いつ何が起こるかわからない。裏方の仕事はいくらでもあり、客の苦情やトラブルに対応するのは当然ながら、心中事件の現場になって後始末に追われることもある。マスコミが押しかけ、お客は来なくなるが、雅代たちの口から、心中したカップルへの恨み言や非難の言葉は出てこない。「こんなダサい部屋で……」と雅代が亡きカップルを思いやるようにベッドに横たわると、天井のシャンデリアにクモの巣がある。床ばかり熱心に掃除していたから、上を見ることはなかったと言うのだが、淡々とした物言いがわびしくてやさしくて雅代が好きになる。
話は少し戻る。従業員ミコちゃんの息子が、給料の一部を現金書留で送ってきて、みんなにほめそやされた後、ヤクザの手下として逮捕されるシーンがテレビに映る。意気消沈したミコは自宅に帰らず寒い中をさまようが、その際、ホテルのみんなが素早く懐中電灯を持って外に駆け出し、彼女を探し回る。心中事件にまで至らなくても、喧嘩したり、絶望したりしてお客がホテルを飛び出す、ということがいくらでも起きるのだろう。都市ではない郊外でラブホテルを経営するということは、自然の脅威からお客を守るという大事な役目もあるのだろう。この映画が思いのほか生臭くならないのは、弱い人間への労りの気持ちが根底にしっかり据えられているからだ。そのことをくどくど説明しないのも心にしみる。
大きな事件を扱った映画や、社会の諸問題を鋭く突く映画が尊重されるきらいがあるが、わたしの優先順位はあまり高くない。むしろ、顔に汚しのはいったような(?)メーキャップをした安田顕や余貴美子の丁寧な演技を見ているとなんだか安心し、その表現内容とは裏腹に心うきうきする。普通の人間は、日々、なんということもないことで悩んだり、突然のできごとにむやみに慌てたり、落ち着いて考えれば単純なことを複雑にしたりして生きている。たいていは、そのまま年老いて消えていくのだ。
今となっては、まさにダサいホテル名「ローヤル」が、高級みかんの名前を頂戴したものだったというオチは、特段に優れていないからこそいい。「格調高いべ」と父は自慢したようだが、そんな若き日の父と母が乗った白い車と、ホテルを去る雅代の赤い車がすれ違うシーンには、生まれてきたことへのほろ苦い感慨がある。ちょっとした失恋を経て、雅代は次のステージに向かう。プリンセスの人生はこれからである。
◎2020年11月13日より公開
内海陽子プロフィール
1950年、東京都台東区生まれ。都立白鷗高校卒業後、三菱石油、百貨店松屋で事務職に従事。休みの日はほぼすべて映画鑑賞に費やす年月を経て、映画雑誌「キネマ旬報」に声をかけられ、1977年、「ニッポン個性派時代」というインタビューページのライターのひとりとしてスタート。この連載は同誌の読者賞を受賞し、「シネマ個性派ランド」(共著)として刊行された。1978年ころから、映画評論家として仕事を始めて現在に至る。(著者の近著はこちら)
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