TPPの現在(2)安倍政権のデータ加工に呆れる

 TPP(環太平洋経済パートナーシップ)にかんする論争に加わったのは、2011年1月4日からだった。産経新聞に月1回の連載に、この日、「ちょっとまてTPP」を発表したのが初めてである。新聞もテレビもほとんどが賛成の立場を表明していたが、誰が賛成していて誰が反対しているのかなどは、まだほとんど知らなかったし、担当の記者もべつに内容に懸念を示すということもなかった。

 実は、前年の11月に郵政民営化についての勉強会があり、そのさい、ある出席者が「ニュージーランドではTPPの話題でもちきりで、ケルジーさんも『日本も危ないわよ』といっていた」と発言した。そこで、その「ケルジーさん」の本を取り寄せて(このときアマゾンでは売っていなかったので、直接、ニュージーランドの出版社に注文した)、ぽつぽつと読み始め、これはかなり大がかりなアメリカの国際戦略になりそうだと思った。

 ケルジーさんはケルシーというのが本当らしいと分かり、さらにTPPについても漠然としたイメージができたあたりで、新聞にTPPに対する懐疑的な文章を寄稿したわけだが、その効果はすぐに生じた。TPPに反対をしていた知り合いの若い評論家やライターたちから連絡がきたのである。そのときは「へえ、やっぱり若い人たちは反応が早いなあ」と思ったが、もうこの時点で論争は急速に拡大していたのだから、本当にのんきなものだった。

 論争が燎原の火のごとく広がり、テレビの討論会などに呼ばれるようになって、まだまだ明確なイメージがつかめないうちに原稿も書くことになったが、その過程でいちばん呆れたのが、政府の各省から発表されているさまざまなシミュレーションだった。たとえば、防衛的な立場だった農水省などは、日本のコメが9割も外米に乗っ取られてしまうといった予測を発表していた。

 そうした、ある意味で極端な防衛的予測はともかくとしても、基本的なところで、賛成派と反対派では解釈がまったく異なってしまうものも多かった。なかでも奇妙だったのは、TPPに参加したときに生まれる経済効果の数値とその解釈だった。たとえば、政府の文書に載っているTPPの経済効果は、意外なほど少なかった。

 GDP押し上げ率が2008年の数値を基にした計算では0.48%~0.65%だとあって、シミュレーションを担当した川﨑研一氏は雑誌で「10年で」ということだと述べていたので、1年に換算すれば約2400億円から3400億円ということになる。ジェーン・ケルシー編の『異常な契約』をみると農業、製造業、金融業、IT関連、その他、10数カ国の経済活動のすべてをカバーする経済協定なのに、日本への効果はこれしかないというのは、最初は納得しにくいものだった。

 地方の講演に呼ばれたときなどは、反対の立場から「みなさん、昨年、日本のGDPは500兆円あります。1年では2400億円から3400億円の押し上げ効果です。しかし、日本の1家庭の収入はいま500万円、それで計算すると2400円から3400円しか増えない。それもうまくいってですよ。この金額は、おとうさんが赤ちょうちんで飲むと1夜で消えるような金額です」などといって、TPP参加が虚しいものだと説明した。

 そうこうするうちに、こうした政府の資料に載っているデータを、そのまま使っているのが間違っているというTPP賛成派たちが大勢出てきた。ネット上でもあれこれ理屈をつけて、こんなに少ないわけはないというブロガーも叢生した。しかし、日本とかアメリカはすでに十分に貿易を繰り広げてきたのだから、これから新しい経済協定を結んだどころで、飛躍的な伸長などあるわけがない。0.48%から0.65%、まあ中間で0.54%くらいに落ち着くというのは、よく考えれば分かることだった。

 面白かったのは、前出の川﨑氏の数値を「10年で、といっているのを、10で割って10分の1にして少ないと言っているのは間違っている。それは、伸び分なのだから、積分的に考えねばならない」といって、わざわざ「伸び分」によって拡大していく三角形を描いた図版に、積分で計算した数値をつけて発表する人もいた。

 しかし、当の川﨑氏は最初のシミュレーションを発表したあと、『週刊東洋経済』2011年3月12日号で「私が算出した内閣府試算は、関税撤廃等の自由化を10年やった場合の累計だ。TPP参加、不参加で3兆~4兆円差がつくとみているが、1年で3000億~4000億円程度、GDPなら0.1%相当にしかならない」と述べていたのだ。

 しかも、さらに「注意すべきは10年後と今の差ということ。年換算すれば数千億円程度で、過大評価するべきではない」とまで言っている(内閣府資料との数値の若干のズレがあるが、基本とする年度の違いと思われる。また、0.1%と言っているが、多めに見てもということだろう)。ちなみに、川﨑氏は『応用一般均衡モデルの基礎と応用』という著作があって、この分野では国際的な権威のひとりだった。

 しかし、安倍政権が登場してくると、予測もずいぶんと「伸びやか」なものに変わっていく。民主党時代のシミュレーションには多くの見過ごしがあり、もっと綿密にやれば正しい予測ができるというわけである。そこで行なわれたのが、経済のそれぞれの分野での効果を積み重ねていくという方式で、その結果、10年後にはGDPに0.66%、金額にして3.2兆円の押し上げ効果があると言い出した。

 しかし、それにしても、まだ日本とアメリカの数値が小さすぎた。そのうち、アメリカのシンクタンク、ピーターソン経済戦略研究所の研究者たちが、自分たちのシミュレーションを発表したが、これが基本的には川﨑氏のものとほとんど同じだった。川﨑氏のものは中間値が日本が0.54%でアメリカが0.09%だったが、ピーターソン版では日本が0.58%で、アメリカは0.07%とさらに低いのである。

 ただし、この種のシミュレーションに慣れたピーターソンの研究者たちは、ちゃんと数値を押し上げる理屈も考えていた。彼らにいわせると、基本の数値は低くても、いざ経済協定が本決まりになり動きだすと「シナジー効果」が生まれるというのである。シナジー効果とは、経営学などで使われる相乗効果のことで、経済計算には現れない組織相互の刺激がさらに効果を上げるというわけだ。

 他のTPP参加国にしても、途上国とはいえ、経済成長を始めるさいの急速なキャッチアップが終わっている場合には、それほどのシナジーは期待できないはずだ。しかし、ピーターソンの連中は何食わぬ顔で、堂々と夢のようなことをいってのけ、さらに、日本は15年もたてばGDP2.2%の押し上げ効果を享受できるだろうと予測したものである。

 この、ほとんど根拠のないような楽観的な数値が、事実上、日本とアメリカのTPP担当相たちの会談で前提とされるようになったことが、TPPについて米通商代表部代表と会談した西川公也農水相(当時)の発言を見れば分かる。西川大臣は米通商部代表から「この経済協定は日本のほうが有利だ」と言われたなどと発言していただけでなく、それを取りまとめたのは自分であるかのような本も書いている。

 安倍政権もこのくらいでやめておけばよかったのに、他の事件を見ても経済データの改竄や加工にあまり罪の意識のない政権であるようで、このときも「シナジー効果」くらいでは満足できなかったらしい。さんざんアメリカに苛められながらTPPの署名にまで漕ぎつけると、さらに新しいシミュレーションを行なって、ほとんど常人には予想もつかない数値をぶち上げることになった。

 2015年12月24日、政府はTPPの発効にともなう経済効果の試算として、GDPを実質的に約14兆円(2.6%)押し上げるとの発表を行なった。この数字には、さすがにTPPべったりだった経済新聞ですら「当初の3倍以上」(つまり、3.2兆円といっていたのに、その3倍以上)と報じたものだが、もう、まともな神経をもっている人間ならば、信じるか否かを問題にする以前に、笑うしかなかったのである。

 こうしたデータ加工については、さらに快進撃が続くことになる。トランプ政権が生まれてアメリカがTPPから離脱することが決定すると、周知のように安倍政権は恋々とトランプの復帰を願ったが、それが叶わぬと分かると、TPP11という奇妙な地域経済協定を考えだして、その「リーダー」に収まることにした。もちろん、アメリカが参加するTPPほどの経済効果を主張するわけにはいかないので、あわててEUとのEPAを取りまとめて、このときもシミュレーションを発表している。

The Economist より

 その発表によれば、TPPが発効したときの14兆円は主張しなかったが、TPP11と日本・EUのEPA(経済連携協定)を合わせれば、約13兆円のGDP押し上げ効果があると主張したのである。しかし、さすがにこの時期になると経済マスコミも13兆円の内訳をこまかく詮索するのはやめて、ワインとチーズの値下げを話題にしていたものだった。

 しかし、この13兆円について細かく見てゆけば、政府の皮算用ではTPP11で8兆円、EUとのEPAで5兆円というのである。すでに発表していたTPPの押し上げが2.6%であるとすれば、TPP11に縮小したときのシミュレーションが8兆円というのは、ちょっと多すぎないだろうか。たとえば、安倍政権とお友達になっていたかと思われるピーターソン経済戦略研究所も、2.6%は0.8%くらいまで落ちるとしているのである。

 数学的な道理を意識するなら、いくら度胸があるといっても8兆円は煽りすぎで、2.5兆円くらいに算定するほうが説得力があるといえるのではないだろうか(もっとも、元がすでに高下駄を履いているけれど)。しかし、そう考えるのはまともな人間の数値感覚であり、いくら改竄・加工をしても文句をいわれたら「それは印象操作だ」と言っておけば国民は何もいわないから、どうにかなると思いこんだ政権には言うだけ無駄なのである。

 こうした数値にかんするデタラメは、安倍政権の性格をよく表していると同時に、このTPPという地域経済連携協定のおぞましさを示している。アメリカは国内の都合でとれるものはとっていく、そして日本は日米FTAに帰結したように、得られるものはほとんどないのである。

毎日新聞電子版の画面から

追記:2019年10月18日に、日米貿易協定が発効したら「GDP0.8%増」との政府発表があった。TPP12なら、アメリカとだけでもGDP押上率は1.1%増だったが、それが0.8%というわけだ。もちろん、元の計算がデタラメなのだから、それにもとづく計算だってデタラメである。そもそも、今回、アメリカが拒否した自動車関税撤廃が行われたとして計算しているそうである。笑うしかない。安倍政権の正気を疑う。この政府試算については、細目が分かりしだい、あらためて検討したい。

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