フク兄さんとの哲学対話(45)ヘーゲル④『美学講義』の豊かさと曖昧さに酔う

ずいぶんと間が空いてしまったが、これには2つの理由がある。ひとつはいろいろ事件が多くて対話の時間がとれなかったこと。もうひとつが、次に取り上げるのはヘーゲルの『法の哲学』と思っていたのに、後世への影響からすると『美学講義』は外せないと急に思い出したためだった。それでちょっと法の哲学を中止して、美学の読み直しに時間をとってしまった。例によって( )内はわたしの独白。

フク兄さん おお、ひさしぶりじゃのう。もう10年くらいになるかのう。

わたし え? そこまではいかないけど……(けっこう根に持っているな)、ま、半年くらいはたっているよね。次々に中東戦争とか、国政選挙とか、大きなイベントがあったので、時間をとられることも多かった。それと当初の予定をかえてヘーゲルの『美学講義』も入れておこうと思ったらこれがなかなか難物でね、思ったより遅くなってしまったんだ。

フク兄さん なんじゃ、ヘーゲルさんは医学もやっていたのか。ほう、さすが神のごとき碩学といわれるだけはあるのう。

わたし 医学じゃなくて美学。つまり芸術の哲学なんだよ。ほんの入門程度の紹介では省かれているものも多いんだけど、本人は芸術を非常に重視していた。学問と宗教とならんで芸術は哲学にとって不可欠だと思っていたんだ。さて、そこでヘーゲルの『美学講義』だけど、日本で読まれている『美学講義』は2種類あって、最初のころの速記録を基にしたコンパクトなものと、後に他の弟子や聴講者たちのノートやメモを加えて、長いけれども整合性のある体系にした分厚いものとがあるんだ。この2つは重複もあるけど構成もちょっと異なる。まあ、順序としては前者を中心に考えて、それから後者で補足するという感じかなあ。

フク兄さん まあ、あんまり欲張りなことは考えずに、分かりやすく話しておくれ。そもそも美学とはなんなんじゃ?

わたし ふつう美学といえば「何が美しいのか」とか「なぜそれが美しく思えるのか」を追求するものと思われている。だけどヘーゲルはその時代の芸術が、何をテーマにしているかを論じているんだ。それは前回話した『歴史哲学講義』のように、時代だけじゃなく世界のどの地域かによって、その地域の芸術が追求しているものも違っている。

フク兄さん なんだか、これも大げさなものになりそうじゃな。

わたし え~と、なるだけ手短に話していくね。歴史哲学では大雑把にいって、中国やインドが「東洋世界」でひとくくり、それがギリシャになって初めて「ヨーロッパ世界の源流」として論じられ、「ローマ時代」に移行して、近代の「ゲルマン世界」の歴史になっていく。美学では東洋世界が「象徴的芸術」、ギリシャが「古典的芸術」、そして以降が「ロマン的芸術」ということになる。ここがちょっとやっかいなんだけど、先にいったコンパクトな講義録ではロマン的芸術というのはローマ時代を含むことになっているけど、あとで追加して体系化したものでは、近代になりかけたころからがロマン的芸術とされている。

フク兄さん ああ、ややこしいのう。ぜんぜん、手短じゃないのう。

わたし ロマンという言葉の起源がローマであることを考えれば、ロマン的にローマが入っていてもいいんだけど、それだとロマン的があまりにも長いし、ローマ時代と近代ヨーロッパでは性格が違いすぎるよね。しかも、ロマン的芸術の部分で話している内容は近代ヨーロッパの作品が多いので、コンパクト版が変なのかと思いたくなるけれど、どうもヘーゲルは芸術哲学を論じ始めた時点では、ロマン的はローマ以降だと思っていたらしいんだ。

フク兄さん なんとかならんのか、そのあたり、適当に飛ばすとか……。

わたし それでエクスキューズをいれつつ、ヘーゲルの講義の内容に入ってしまうと、東洋世界の芸術の性格は「すべての宗教および哲学のそれと同様に、実体的な同一であり、それ自らにおける存在の絶対的な堅牢さ、絶対的な真理、自らをまだ規定しないもの、まだ自らを知ることのない不明瞭なもの」というふうにヘーゲルは述べている。いまインド芸術とかエジプト芸術を見てそう思えるかということは別として、ヘーゲルは東洋的な芸術を、それ自体の堅牢さがあるが不明瞭さのある「まだ規定しないもの」として見ているんだね。

フク兄さん ああ、いらつくのう。こんなときには一杯やるに限るのう。弟よ、お前がもってきた袋を開けておくれ。おそらく米沢の「東光」じゃろ。

わたし え? よくわかるなあ。カミさんが東光にハマっていて、それでまたしてもこれをもっていけというわけなんだ。さあ、(あ、もうドンブリが用意されている)、ドンブリしっかりつかんでいるんだよ(なんか震えているなあ、あ、嬉しそうな顔)。

フク兄さん おととととと、おお、いい香りじゃのう。ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび……ぷふぁ~!! うまいのう。お前も少しだけどうじゃ(ちぇ、小さな盃だ)。

わたし おっととと、ぐび、ぐび。おお、やっぱり旨い! さて、こうした東洋の象徴的芸術は、そのものとして堅固であり、それは主に巨大な建築として表現されていたという。しかし、それがギリシャになると建物であってもそこに理念的なものが見られるようになる。いうまでもなく様々な種類の石柱であり、そして何よりギリシャの建物に付けられた彫刻は、ギリシャの芸術そのものとなっていく。「古典的な芸術では、表現がまさにそうであるべきもので、概念が実在のうちに入れ込まれるとともに、実在が概念のなかに入れ込まれており、つまり感性的な理想である」というわけなんだ。

フク兄さん ………。(あ、もう寝ている)

わたし 古典的な芸術では、完全に「コンセプト」と「作品」が一致してしまっているとヘーゲルは言っている。この状態はギリシャ彫刻の美的な完全性として、われわれにも理解できるものだろう。ところが、この完全性と見られたものが、ロマン的芸術の時期になると破られてしまう。「この絶対的な調和を超越したものがロマン的な芸術である。ロマン的な芸術は概念と実在の統一の破壊であり、対立の覚醒であり、つまり(東洋の)象徴的な芸術での不適合とはまた異なる価値をもつ不適合の目覚めである」。こうしたロマン的な芸術は絵画によって代表されるというんだね。

フク兄さん あ、さっき聞いた「ローマ時代からか近代になってからか」という問題は、どこへ行ってしまったのかのう。

わたし 初期の速記ではローマ時代のキリスト教化がロマン的な芸術をもたらしたと述べているが、これは近代絵画でも言えるわけで、ヘーゲルは近代絵画でのマリア像における愛の表現が、ギリシャのアフロディテの性的なものでないことを強調しているんだ。ロマン的な芸術になって何がいちばん大きいかといえば、そこに主観が大きい役割を果たすことであるともヘーゲルは述べている。このマリアの愛は「理念的なもの」であり、また近代絵画の肖像画なども、高いレベルの「理念性」によって、それぞれの個性を描きだしていることが特色だと述べている。「高い個体性」という言葉を用いているけれど。

フク兄さん ………。(また、寝てしまっている)

わたし ギリシャの古典的な芸術では「完全性」や「調和」だったのだけど、ロマン的な芸術ではそこからの「解き放ち」や「超越」が問題になっているというわけだね。どうもこうして見てくると、ヘーゲルはロマン的な芸術については、結局、近代ヨーロッパを中心においているようであり、後世の編者によって体系化された『美学講義』の翻訳者があっさり中世以降も入っているが近代ヨーロッパが中心と解説してしまっているのも、無理ないと思えてくる。しかし、ロマン的芸術で論じたいのは「絵画の最高の対象は、たしかに自分自身に対して振舞う魂であり」、それが描かれているかということになる。雑にいえば、そこに形式以外の主観が入っているかどうかなのだね。そしてまた、この最高の魂の振る舞いを表現するためには、ジャンルを音楽に移すことになるというわけなんだ。

フク兄さん …………あ、わしは寝ていないぞ。しかし、どうも分からないのう。もし、ギリシャの彫刻が完全だとするなら、そこで人間は創作を停止してしまえばいい。あとで考えれば、実は、完全でないから、完全でないと分かったから、ロマン的な絵画に移行したというわけかのう?

わたし そういうことになるね。歴史のなかで残されていく芸術は、その時点では何らかの目的を達成して完成といっていいような作品を生み出すが、それはやがて完全などではなかったことになるというわけだろうね。もちろん、音楽が最高の魂の振る舞いを表現できたと思うや、こんどはヘーゲルが「語りの芸術」と呼んでいる詩や演劇へと移行すると述べているんだ。これはワーグナーがベートーベンの交響曲9番を、合唱が入り始めた最後の交響曲と認識して、自分は歌曲で構成されるオペラに向かうと決心した契機が思い出される。もちろん、これはヘーゲルより少し後のことだけれど。

フク兄さん う~ん。ちょっと考えてみよう………え~と、え~と………zzz(あれ、また寝てしまった)

わたし なんだか荒唐無稽にも思えるが、それぞれの芸術が最盛期を迎える時期が、移行していくと見るのはおかしいわけではないからね。そのさいに芸術家が何をどのように表現しようとしているかも、まさに美術史が記述しているように、歴史のなかで対象と表現方法が移行していくことはありふれたことで、ヘーゲルは当たり前のことを、筋道たてて(あるいは独特の理屈をつけて)言っているだけのことなのかもしれないんだ。

フク兄さん …………。(気持ちよさそうに寝ているなあ)

わたし もう少し「語りの芸術」について解説したいんだけど、もうかなり長くなっているので、ヘーゲルの美学講義の後世への影響について付け加えておくね。美術史についていえば、ヘーゲルの後継を標榜したものは別として、もっともその関連性や類似性を強く感じさせるのは美術史家ケネス・クラークの『ザ・ヌード』といってよい。クラークは西洋美術史に登場するヌード作品について、それらは裸体(ネイキッド)そのものをテーマにしているのではなく、何らかの「理念」を表現するものだったと言い切っている。

フク兄さん ……お、それはわしも聞いたことがあるぞよ。若い頃にヌードショーを見に行ったら、わたしたちは理念を売り物にしているのよ、といわれて白けたことがあった。しかも理念も何もないのに、料金はちゃんと取られた。(ああ、何をいっているんだ)

わたし え~と、それからこれは日本の評論家で劇作家だった山崎正和が、若いころの作品、1967年刊の『芸術現代論』のなかで、現代芸術はヘーゲルが予告した通りにコンセプトあるいは理念だけのものになりつつあると論じている。その代表が写真家・奈良原一高の作品群で、そこにあるのはコンセプトだけなのだと指摘し、むしろ芸術の衰退を憂いてみせたものだった。そこから脱却するためには、芸術がもっていた手作業の過程を復活させなくてはならないというわけなんだ。奈良原の作品に手作業がないかといえば、そんなことはないのだが(当時の写真はまだまだ職人的能力が必要だったし、チャンスを待つのに手間暇をかけており、また、被写体と良い関係をつくるのにも苦労していると思われる)、いまやほとんどを自動的に撮影できるカメラが普通になり、映像を安易に変形し、他と融合させたものが芸術品であるかのように人びとが思い込んでいるのを見れば、山崎の憂慮はあたっているかもしれない。

フク兄さん あ、酒が切れた。もう少し飲みたいのう。

わたし ちょっと待ってね、もうすぐ終わるから。え~と、哲学史でヘーゲルの美学講義から強い影響を受けた人は誰かといえば、なんといっても解釈学者ハンス=ゲオルグ・ガダマーではないかと思われる。彼の『真理と方法』の第一巻や、彼の美術についての考察を含んだ論文をあげるべきだろうね。ガダマーは、解釈学の使命はシュラエルマッハ―がいったような「過去の復元」などではなく、むしろヘーゲルが『芸術講義』で示唆しているように、「現在と過去との媒介」だと主張した。この部分を引用しておくと、「歴史的精神の本質は、過去の復元にあるのではなく、思惟によって現在の生と(過去との間)の媒介を行うことにある」と述べている。それがそのまま、ガダマーの歴史解釈であり美術作品の解釈にも適用されている。彼は抽象的な現代美術もこの方法で論じていた。

フク兄さん わしの言った通りじゃろ。酒は飲めばなくなる。酔った気分を続けるには、くよくよせずに、酒をつねに調達して、ずっと飲み続けなくちゃならんのじゃよ。

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