フク兄さんとの哲学対話(16)ホッブズ『リヴァイアサン』の衝撃③

福島の二本松から、いよいよ帰京することになったが、わたしとフク兄さんは二本松の町が見たくなって、他の家族を先に帰すことにした。彼らは郡山で買い物をして待っているという。1時間くらいぶらぶらしたのち、各駅停車に乗って郡山を目指したが、車内で哲学対話を続けることにした。例によって( )内は私の独白。

フク兄さん いやあ、なかなかいい町だったのう。城下町というのは、やはり気品というものがある。駅前のシャッター通りはちょっと寂しかったが、やっぱり大七がある町だけのことはあるのう。

わたし あれ、もう大七の小瓶を開けてしまったのか。しょうがないなあ……

フク兄さん いいではないか、旅の友はその土地のお酒と決まっておる。ぐび、ぐび、ぐび。

わたし さて、ホッブズの話を続けるけど、前回、触れなかったことから始めよう。いわゆる社会契約論はいろいろあるけれど、ホッブズの場合はいったん社会契約がなされて国家が生まれると、もう、以降は国家が独裁的な性格を帯びる。たとえば、ロックの場合には抵抗権を認めるので、革命を起こす権利が留保されているのだけどね。

フク兄さん おお、いい酒じゃ………あ、ちゃんと聞いておるぞ、ほんと。

わたし この点はその後の政治哲学での論争のひとつとなっていくんだけれど、現代になってからこの絶対主義的な傾向を評価したのは、ドイツの法哲学者カール・シュミットだった。彼は『リヴァイアサン』のラテン語版から「真理ではなく権威が法をつくる」という文章を引用しながら、秩序が形成されたのちは、主権者が法そのものとなるという「決断主義」の先駆者として、ホッブズを取り上げたんだ。

フク兄さん ふむ、ふむ……。しかし、いかに王様が「おれが主権者だ」といっても、歴史をみればいくらでも革命を起こされる。そもそも、ホッブズはピューリタン革命を目撃しているわけじゃろ。秩序を維持するには、前回言ってた数学的な論理だけではだめなんじゃないのかのう。(お、酒の勢いとは思うが、するどいなあ)。

わたし ホッブズの『リヴァイアサン』は「40歳になってから学んだ数学的な論理で書いたわけではない」と主張した政治哲学者にレオ・シュトラウスがいる。彼はアメリカでは「ネオコン」の元祖なんて言われるけど、実は古典主義的な傾向をもつ思想家で、『リヴァイアサン』もヨーロッパの伝統的な思考の延長線上にあると論じて論争になった。

フク兄さん おお、お前もどうじゃ。紙コップならあるぞ。よし、よし。

わたし あんまり注がないでね。おっととと、ぐび、ぐび……、あ、うまい。……え~と、このレオ・シュトラウスの説に対して、深く支持すると同時に批判したのが、マイケル・オークショットという政治哲学者だった。オークショットは、ホッブズが「情念」を基盤にして論じていることからしても、『リヴァイアサン』が数学的論理ではないというのは正しいと同意した。でも、シュトラウスの議論は、十分に証明されていないと批判してもいる。

フク兄さん 文句をつけるのが知識人の商売とはいえ、みんな細かい抽象的なことばかりいって、なんだか現実味がないような気がするのう。……ぐび、ぐび、ああ、うまい。

わたし まさに社会契約というものが、一瞬にして成立するようなものだったら、そのとおりだよね。オークショットは社会契約というものは、その参加者に秩序形成への志向があって初めて成り立つんだと論じた。いってしまえば、充分に他を圧倒できるような有力者がいて、その人物が他の有力者たちを巻き込んで秩序を作ったというのが、本当に説得力のある話であり、それが『リヴァイアサン』に隠れている、真にホッブズが述べたかったことなんだというわけだ。

フク兄さん そのオークションさんは(オークショットだよ)、常識からすると正しいみたいじゃが、これまで聞いたすごみのあるホッブズさんとは、まったく違うような印象があるのう。ちょっと、奇を衒っていないか?

わたし そういう反発もあったけど、実は、そうした社会契約論というのは、イギリスの思想史ではお馴染みなんだ。デヴィッド・ヒュームという思想家が、すでに「いわゆる原始契約について」というエッセイで述べていたことと極めて近い。オークショットの「序説・リヴァイアサン」という論文を読んでいると、ふむ、ふむと思うんだけれど、ふたたび『リヴァイアサン』を読むと、そんなことがどこに書いてあるんだと思うことも否定できない。

フク兄さん しかし、何か集団のようなものを作って、それが長続きするのは、力のある者が一方的に引っ張っているより、メンバーになる者もそれを求めている、というときだといえるかもしれんなあ、ほっほっほ。(なんだか、大七の効き目がすごいな)

わたし 実は、まさに『リヴァイアサン』について、そう述べた思想家がいるんだ。ミッシェル・フーコーという哲学者なんだけど、1970年代だったと思うが、ホッブズがいう契約の前に何があったかといえば、メンバーになる者たちの「恐怖」があったと論じた。ホッブズが恐怖によって秩序が生まれたというとき、それは上の権力者の恐怖ではなく、生まれた権力に従うことになる下の者たちの恐怖だったというんだね。上からの暴力や圧力ではなく、下からの心理的な圧力で権力が生まれるというのが、後のフーコーの権力論なんだけれど、もうすでにこの時点で『リヴァイアサン』を読むことで、概要は出来ていたわけだ。ここまでくると、絶対主義的な権力の正当化といわれる『リヴァイアサン』はどこにいったのか分からなくなるけど、日本人の「空気」とか「同調圧力」とかを考えるさいには、実に有効なものを含んでいるのかもしれない。

フク兄さん あ、いかん! ………どうしようかのう……

わたし どうしたの、フク兄さん?(なんだ、顔色が悪いぞ)

フク兄さん あのな、二本松の駅のロッカーに、わしの荷物を入れっぱなしじゃ。戻らんといかんな、どうしようか、ヒック(もう、何やってんだ。完全に酔っぱらっているし)。

わたし ともかく次の駅で降りて、二本松にいったん戻ろう。ええと、スマホ、スマホ………あ、ぼく……あのね、フク兄さんが荷物を二本松に忘れちゃったんだ。……え、仕方ないだろう。……そんなに怒るなよ。……ともかく新幹線には間に合うように行くから。え、べーさんも怒ってる?………わかった、わかった。それじゃ(おお、カミさん怖いなあ)

フク兄さん べーさん、怒っとったか?(あ、フク兄さんもベーさんが怖いんだな)

わたし そりゃそうだろ。でも、仕方ないから、ま、有力者には逆らわないで、下手に出るのがいちばん。ホッブズを論じながら、二本松に戻ることにしようよ。

●ホッブズは3回完結です。こちらもどうぞ
フク兄さんとの哲学対話(14)ホッブズ『リヴァイアサン』の衝撃①
フク兄さんとの哲学対話(15)ホッブズ『リヴァイアサン』の衝撃②
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