今のバブルはいつ崩壊するか(8)戦争の脅威は株価を暴落させる
アメリカのイラン司令官殺害のショックは、当然のことながら株式市場にも波及し、1月6日の東京証券市場の午前、一時500円以上の下落を生み出した。これまでも戦争あるいは戦争の脅威が株価を下落させた例は枚挙にいとまがない。
株価が戦争を予想させる事件によって下落を加速した例としては、何より2001年9月のアルカイダによる同時多発テロがあげられる。また、湾岸戦争は1990年8月2日のイラク軍によるクウェート侵攻によって始まったが、それ以前も緊張感を生み出していたし、戦争開始後は下落を始めていた東証の株価に大きな影響を与えたことは間違いない。
前回はロバート・シラーの2020年に向けての予想を取り上げた。このなかでシラーがアメリカの株高を「トランプ効果」あるいは「トランプのナラティブ」にドライブされたものだと論じていた。トランプはアメリカの経済を煽って株高を実現しているというのだが、逆に、トランプが株価を抑制するような言動に出たとき、いったいどうなるかが今の状況といえる。
そのことは、前々回のヌリエル・ルービニによる予測についてもいえる。歓迎すべきニュースとして「トランプが中東の現状を維持しようと考えているらしい」ことを挙げていたが、今回のトランプによるソレイマニ司令官の殺害は(たとえ、その正当性があるとしても)世界の経済と株価に大きなショックを与えずにはいない。
今回は前回のシラーによる「ナラティブ経済学」の続きということになるが、それがトランプの提示するナラティブ(つまり、煽るための「物語」)と深くかかわっている。トランプ効果はプラスにも働くし、また、いまのようにマイナスに働くこともある。
シラーのナラティブ経済学によれば、「新しい時代」が来たという「物語」が、経済を刺激し株価を押し上げるという現象が、しばしば見られるということだった(今のバブルはいつ崩壊するか(7)幻想を産み出し破裂させる「物語」)。その物語は根拠があることもあるが、ほとんどの場合には怪しげなもので、ブームが起こって株価がピークを迎えたころに、何らかのショックによって物語の力が失われバブルは崩壊する。
シラーが2000年の『根拠なき熱狂』でITバブルの崩壊を予測し、2005年に同書の第2版で住宅バブルの崩壊を予測したことは前回に述べたとおりである。さらに、シラーは2009年に刊行した『サブプライム・ソリューション』では、バブル崩壊後の対策を提示したが、このさいにブームの形成と崩壊を感染症に喩えていた。
2017年の論文「ナラティブ・エコノミー」はその「仕事始め」といえるが、このなかですでに始まっていたニューヨーク証券取引所の高騰は、トランプのナラティブによるところが大きいと論じる。「彼は前代未聞のナラティブに熟練した大統領」だというのだ。これは必ずしも褒めたものではなく、インチキ臭い話を本当らしく語る能力において優れている大統領だといったわけである。
先ほども述べたが、その能力はプラスに働いているときにはブームを形成するが、逆に何らかの状況で経済にショックになる言動に出たときには、それまでの物語が「インチキ」であったことが明らかになる。今回、そうなるかどうかは予断を許さないが、その可能性は大きい。
シラーの「ナラティブ経済学」の手法で特徴的なのは、いわゆる感染学あるいは疫学を取り入れていることである。これには多くの蓄積があるが、もちろん、自然現象である病気の感染を、経済現象に応用するのは困難な部分もあり、また、かなり危険なことかもしれない。
しかし、疫学で用いられるモデルと、そこから描かれたグラフを見ていると、これは「使える!」と思うのも無理はないのである。1950年代だったが梅棹忠夫という文化人類学者は、宗教の伝播現象についても、疫学の成果が使えるのではないかと論じたことがある(拙著『予言者 梅棹忠夫』参照)。
もちろん、シラーは注意深い人間なのでかなり限定的なものとして応用している。まず、見ていただきたいのが、感染が始まってからそれが蔓延し、急にそれが消滅していくことを示したグラフなのだが、これはいくつかの仮説によって成立していることはいうまでもない。
次に、シラーはこれが社会現象にどこまで応用が利くものなのか、いくつかの現象に当てはめて論じている。たとえば、レーガン大統領が採用して失敗した「税金を減らすとかえって税収が増える」というラッファー説だが、その説がどれほど流行して廃れていったか、つまり、どれほど感染して消滅していったかをグラフにしている。これはかなり妥当性があるように見える。
それにくらべて、たとえばケインズ経済学をグラフ化した「IS・LM分析」だが、流行したことがあっても、完全に消えることはなく、繰り返し論じられることがわかる。いっぽう、ケインズとその周辺から出てきた「乗数効果」については、50年代には流行ったが60年代になると後退してしまう。これは感染して鎮静した類の説と見ることができる。
ほかにも社会現象として取り上げているのが、「プロフィティア伝説」だ。アメリカには特権的にお金を手にできる連中がいて、彼らが陰謀によってアメリカ国民をだましているという都市伝説である。これは1920年代に猖獗を極めたが、面白いことに大恐慌が起こると消えてしまった。
わかりやすい現代への応用としては、シラーはビット・コインを初めとする仮想通貨は「単なる感染」とバッサリと切っている。「感染し、熱をださせ、そして消えてしまう」というわけである。ビット・コインはナラティブとして理解しやすい例であり、いまだにしがみ付いている若者たちがいるのが不思議なほどである。
こうした疫病あるいは感染抑制理論を取り入れることによってシラーが試みているのは、すべてを予測できるようになるからではない。もちろん、そうなれば素晴らしいだろうが(もちろん、未来が予想できることが幸福をもたらすとは限らないが)、こうした「ナラティブ経済学」には限界があるにしても、角度の違う視点をもって経済を見ることが必要だということなのだ。
私たちはシラーのように厳密に考えて論文にする必要はないが、いくつかの発想は手にすることができる。経済において、あるいは株価やその他の現象において、ナラティブのもつ大きな効果である。
厳密癖のシラーはこの「ナラティブ」の定義を、オックスフォード英単語辞典にしたがって「社会現象や時代の説明あるいは正当化に使われる物語あるいは表現」(単行本『ナラティブ経済学』)としている。いまのナラティブは、まず「トランプ効果」ということになるかもしれない。若いときはワルだったトランプ大統領が、いまや悪しきアメリカ内の勢力を叩き潰し、新しい時代を切り開いているという物語である。
しかし、今回のイラン問題での性急さは、たとえ英国のジョンソン首相が支持したとしても、ブームのマイナス要素でしかない、つまり、感染症でしかないアメリカの経済成長と株高という物語を叩き潰してしまう危険は十分にあるのではないだろうか。(モノクロのグラフはシラーの「ナラティブ経済学」より)
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