ゆっくり考える(続)

 経済問題についての解説などで、しばしば、短期と長期という対比がなされます。テレビの経済解説などでは、「財政出動は短期的には効果をもたらすが、長期的には財政を悪化させる」と言われたり、「金融緩和は短期的には効果が現れにくいが、長期的には大きな効果が期待できる」と論じたりします。

 もちろん、これは前回紹介したような、心理的な「速い」と「遅い」ではありませんが、何かを考えるさいに時間という要素をいれると、正しかったものが間違っていたものになり、間違っていたものが正しくなるという点では、時間の取り方によって別の展開になる現象のひとつといえるでしょう。

 では、経済問題で語られる短期とはどのくらいの長さで、長期とはどのくらいの長さをいうのでしょうか。経済問題での解説を聞いていると、どうもこの短期と長期というのは具体的な数値が出てこないことが多いのです。それは経済というものが、すっきりと明確に判断できる性格をもたないために、あえて曖昧に語っているのかもしれません。

 しかし、実は、経済学ではこの短期と長期は厳密に区別されるだけでなく、提言する経済政策においても極めて重要な意味を持っています。ごくポピュラーな経済学の教科書では、短期とは経済において「均衡」が崩れた状態のことを意味し、長期とは崩れた「均衡」が回復する期間を意味することとしているのです。そして、これは便宜的にでしょうが、短期を数か月から1年、長期をそれ以上として差し支えないと述べているのです。

 もちろん、こうした定義はいくつもの流派が存在する経済学において、すべての経済学者が共通して賛成しているものではありません。とはいえ、主流といわれる経済学においては、経済現象はしばしば逸脱して「均衡」から離れることはあっても、常に「均衡」を回復することになっているのです。

 たとえば、小麦1キロを売りたい人たちと小麦1キロを買いたいひとたちがいたとき、売りたい人たちはなるべく高く売りたいと思っていますが、買いたい人たちはなるべく安く買いたい思っています。当面は売りたい人たちの提示した値段で売買されるようなことが生じたとしても(逆に買いたい人たちの提示した値段で売買されたとしても)、時間が経過して市場全体の様子が知れ渡ってしまうと、売りたい人たちの値段と買いたい人たちの値段が近づいていって、一定の値段に収束すると考えるのです。

 こうした逸脱から均衡への果てしない繰り返しが、すべての物やサービスについて継続されていくことで、すべての売買がひとつの物(サービス)については、ひとつの値段に決まっていくというのが、市場の均衡というもののイメージなわけです。

 では、こうした均衡のイメージは正しいでしょうか。結論からいうと、そんな均衡が常に成立していると考えるのは不自然です。それが自然現象であるならば自然法則として成立しているというのもあり得るでしょう。しかし、人間の恣意や願望を巻き込んでいく市場が、自然現象のような動きをするというのは信じられません。ところが驚くべきことに経済学の多くは、「均衡」するのが常態であるという考えによって組み立てられているのです。

 こうしたケースにおいては、(あなたが経済学者であるか、あるいは経済学者を目指す人でないかぎり)、「短期=逸脱、長期=常態」などと論じることは、「速く」考えようと「ゆっくり」考えようと、いずれにせよ誤謬に到達してしまうに違いないのです。むしろ、経済学については、こうした2分法自体が成立するのかという根本にまで、さかのぼって考える必要があるのではないでしょうか。こうした遡及的な検討においてこそ「ゆっくり」と考えてみる必要があるのです。

 おそらく経済学を学んで納得している人たちは、「なにを馬鹿なことをいっているんだ。経済に均衡があることは、何人かの天才的な経済学者たちによって、数学的に証明されているではないか」というかもしれません。しかし、別の何人かの天才的な経済学者たちは、そんな数学的な均衡など、人間社会にはないと断じていることも事実です。

 短期の逸脱が「常態」であるはずの均衡に戻らなくなる現象を論じたことで有名なのはJ・M・ケインズですが、ここでは別の例をあげておきましょう。数学的に均衡を「証明」したことになっていて、その均衡論ゆえにノーベル経済学賞を得たジョン・ヒックスは、学者としての後半生を経済史の研究にあてて、数学的な均衡が普遍的に成立してきたなどという説には懐疑の念をいだくようになりました。実は、ノーベル賞をもらったときは、以前の自分の研究に違和感すらもっていたのです。

 ヒックスは、もっとも単純な物の売買価格についてすら、売買の交渉が始まる前に「だいたいこのくらいが妥当な値段だ」という共通の認識が必要だと示唆しています。つまり、すくなくとも現代の価格決定には組織もしくは制度の存在があるはずだと考えたのです。後期ヒックスは市場の論理と歴史の経験との危うい接合を図ったことで批判も多いのですが、論理と経験との併存は、人間の社会においては普通のことではないでしょうか。

 それは、たとえば現代においても、労働賃金の決まり方をみれば、「賃金は労働市場の均衡によって決まっている」などという人間は、現実をまったく知らない無知な人か、現実をまったく無視できる経済学者にだけ可能だとわかるはずです。彼らは「ゆっくり」考えるべきことを、通説という根拠のない権威を即座に用いるか、あるいは均衡理論という権威に延々とすがることによって、推論のプロセスに入ることを回避しつづけ、「速く」考えて尊敬を得ているわけなのです。(つづく)

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