フク兄さんとの哲学対話(26)デイヴィッド・ヒューム④彼は無神論者だったのか

鬱陶しい季節になったが、あいかわらず地方に出かけることは多い。先日も仕事の帰りに福島県のある温泉に立ち寄ったが、完璧ともいえるコロナ感染対策のお陰で、みんなゆったりと過ごした。料理も美味しく、地元のお酒もうまかったので、フク兄さんはご満悦だった。例によって( )内はわたしの独白である。

わたし ヒュームについての話を続けたいので、さっそく夕食までの時間をあてることにしたいんだけど、いいよね。ヒュームも4回目になるけれど、近代哲学でもきわめつきの重要人物だからしょうがない。

フク兄さん おお、もちろんじゃ。それで、今日はヒュームの何について話すのじゃ?

わたし 実は、ヒュームという人は無神論者とされて、当時はさまざまな批判や弾圧の対象になったのだけど、どうも、そうではないのじゃないか、というのが今日の話の中心にしたいんだ。少なくとも、単純に「神なんかいない」といったわけではない。

フク兄さん たしか、ヒュームさんは、人間の理性でもって神の存在を証明しようとするのは、おかしいといっていたのう。

わたし 『人性論』では、哲学者たちが試みてきた神の存在証明というのは、無理があると指摘していた。つまり、人間が考えられるのは知覚で経験したことだけなんだから、知覚で得たものからつくった観念でいくら考えても、それが神の存在を証明したことにはならない。「神といっても、それは神という存在の観念を操作しているだけ」というわけなんだね。

フク兄さん ふむ、ふむ。

わたし ヒュームには2つほど、宗教についての著作があって、これがまた一見矛盾しているように見えるので、さまざまな論争を生み出してきた。ひとつが『宗教の自然史』、もうひとつが『自然宗教に関する対話』。後者は生前には出版されなかった。親しかったアダム・スミスに刊行をゆだねたんだけど、スミスは無神論者の濡れ衣を着せられるリスクを感じてそうしなかった。

フク兄さん ということは、かなり過激なことが書いてあるのかのう、その『自然宗教に関する対話』とかいう本は……。

わたし いまからみれば、別に危ないことが書いてあるわけじゃないんだ。3人の論者が登場して、それぞれの立場で神について語っているだけ。伝統的な宗教観をもっているデメア、懐疑的論者のフィロ、哲学的な分析をするクレアンティスという3人なんだけど、ただ、どの人物がヒュームのものか分からない。そのため、どれがヒュームの代わりなんだという論争が続いてきた。

フク兄さん で、どの人物がヒュームなんじゃ?

わたし それが、どうも分からない。というか、圧力を警戒して、わざと分からなくしていたのかもしれない。それとも晩年になって混乱してしまったのか。たぶん、この3人の対話の中からヒュームが言いたい微妙なことを、読み取って欲しいということじゃないかな。それを考えるには、ヒュームが『人性論』のなかで神をどう扱っているか、また、さきほどあげた『宗教の自然史』の内容を参照すれば、ぼんやりと分かってくると思う。

フク兄さん なるほど、なるほど。

わたし そこで考えてみると、ヒュームの立場は理性でもって推論しても、この世の真実には到達できないというものだよね。すでに語ってきたように、情念や想像力で未来のことを予測したり、あるいは、この世の道徳を作り上げて、それらが習慣として定着したものを人間活動の支えにしているというのが本当だというんだ。ということは、神についても同じように考えているんじゃないかと推測することができる。

フク兄さん 道徳や正義は人間が作ったものだといっているんだから、神も人間が作ったものということになるのかのう。

わたし そう考えれば分かりやすいし、ヒュームが無神論者として批判されたのも当然だったということになる。事実、ヒュームが神から離脱したことをもって、彼の哲学史上の功績とする研究者は少なくない。ところが、『宗教の自然史』を読んでみると、次のようなくだりが繰り返し出てくるんだ。「自然の全体は知性のある創造主がいることを証明している。すなわち、合理的な探究者であれば、真剣な検討を経たのちに、まっとうな有神論や宗教の第一原理に関して、一瞬たりとも自らの信仰を疑うことはできない」。

フク兄さん ほう~。……ちょっと、ここらで息抜きが必要じゃの。え~と、これはどうじゃ(なんだ? ペットボトルに液体が入っているぞ)。これはな、この旅館のロビーでいくらでも飲めるようにしてある『末廣』じゃよ。(え?)

わたし なんか、一升瓶がおいてあったけど、あれは無料なの?

フク兄さん みんな、少しずつ小さな紙コップに注いで飲んでおるが、まどろっこしいのでペットボトルに入れてきたのじゃよ、ほっほっほっほ。(大丈夫かなあ、時間限定のサービスじゃないかと思うけど)

わたし じゃ、これで(小さな茶椀だけど)。おとととと、ぐび、ぐび、……ぷふぁ~。これは旨い。

フク兄さん な、旨いじゃろ。さて、(おお、またご飯茶碗だ)、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぷふぁ~~~。おお、旨いのう~。会津の酒のこだわりと洗練が一緒になったような銘酒じゃのう。……ぐび、ぐび。

わたし 飲みすぎると夕食に差支えがでるよ。ここの食事は評判がいいんだから、そのときにも飲めるし……。え~と、話を戻すと、ヒュームはこの世界をつぶさに観察すれば、そこで見出せるのは、一貫した計画に基づいた知性の証なのであって、それを創造者と呼んでいるわけなんだよね。

フク兄さん それは神と呼んでもよいのじゃな?

わたし そうらしいんだ。『宗教の自然史』を読むと、世界中の宗教と神々について語り、おそらく最初の宗教は多神教だったろうと述べている。さまざまな自然に対する恐れや崇拝の念、自分に起こる不幸や幸福について、理屈付けようとすれば個々の神を設定するのが自然だというわけだ。しかし、そこからが分かれるわけだけど、自分だけの関心事だけでなく、世界全体で考えようとすれば、それはバラバラなものではなく、ひとつの知性的な存在に気づかざるをえないというんだ。

フク兄さん う~ん、しかし、日本人みたいに、いまでも多神教といってよいような国も残っているぞよ。わしも、お酒を飲むときは神棚に柏手を打つし、ワインを嗜むときはバッカスを拝み、ビールを楽しむ際にはドイツ民謡を歌うからのう(え? ほんとかな)

わたし ヒュームは多神教の代表としてギリシャ人の宗教と神々を取り上げているけれど、そこでは道徳にしても社会の秩序にしても、いつまでも矛盾を抱えたままに留まっている。それに対して、キリスト教のように一神教によって全体の企てを想定できるようになると、いちじるしい統一が見られるようになると述べている。多神教の文化では寛容があり、いっぽう、一神教では厳格性が強まるが、社会秩序や道徳の洗練からいったら、一神教がずっと優越していると述べて疑っていない。

フク兄さん それは、ヒュームさんは西欧人なんだから、キリスト教の一神教を当然とするのかもしれんが、日本での現実を見ていれば、文明が進展すれば一神教になるというのは、いまひとつピンとこないのう。(お、めずらしくヒュームに違和感をいだいている)

わたし もちろん、ヒュームは一神教と多神教は繰り返し摩擦を起こしてきたと指摘しているが、世界中が一神教に統一されるべきだとは言っていない。ただし、経験によって得た知識を用いて推論してみると、一神教が世界のなかに見られる知性的な計画を説明するのにふさわしいということなんだね。この点、日本人は同意できないかもしれないが、ともかく、この『宗教の自然史』は18世紀の本なのに、なんだか20世紀の宗教社会学や文化人類学を読んでいるような錯覚に陥ることも本当なんだ。

フク兄さん ………。(あれ、眠ってしまったかな)

わたし そこで、さっきの『自然宗教に関する対話』を思い出すと、懐疑論者のフィロがこうした合理的な宗教の分析をどんどんやってみせている。クレアンティスは彼に同意しながらも、極端な推論は避けるほうがいいと助言したりしている。それなのに、そのフィロが終盤になって自分は信仰をもっているが、それは世界を詳細に眺めれば、そこに統一された知性を感じざるを得ないからだと言い出すんだね。どうも、この急先鋒のフィロに分析的な側面をやらせておいて、クレアンティスに制御させるという構図があるような気がする。

フク兄さん う~ん、どうも、ややっこしいのう、ヒュームさんの宗教論は。

わたし それというのも、『人性論』以来、ヒュームは無神論者とレッテルを張られて、常に聖職者たちからの攻撃に神経質にならざるを得なかったからなんだ。それでも、彼は著作のなかで聖職者を批判するのをやめなかったけれど、神がいないとか、宗教など不要だという言い方はしなかった。

フク兄さん それで、ヒュームさんは、いったいどっちだったのじゃ? 神はいないと思っていたのか、それとも本当は神を信じていたのか。

わたし それは『人性論』まで戻ってみると、ヒントがあるのじゃないかな。他の哲学者たちのように、理性を用いれば神の存在を証明できるなどとは考えていなかった。これは確かだよね。この世界を作っているのは、情念から生み出された道徳や倫理で、それらが習慣化すると秩序を安定させることができる。だから、神の観念も恐怖や崇拝といった情念から生まれたのかもしれないが、それが習慣化すれば宗教の核心として、社会を維持する大きな力になるから、教育にも取り入れられていったと考えていたらしい。

フク兄さん ということは、神は作り物でも役に立つから、存在していることにしたほうがいいと思っていたのかのう。そうだとすると、かなりニヒルじゃな。

わたし そこが微妙なところだけど、ヒューム自身も『自然宗教に関する対話』に出てくるフィロやクレアンティスのように、経験で得た知見を突き詰めていったときに、この世の背後には知性的な創造者がいるという感じをもっていたと思う。客観的に論じているだけでなく、彼自身がそうした情感を抱いていることを自覚していた。それはヒュームの哲学からすれば理性がそうさせているのではなくて、もともとは情念から始まったものなんだからね。キリスト教社会のなかでは、しっかりと習慣化してしまっていて、そこから完全に出るということは、実は、不可能に近いということじゃないだろうか。

フク兄さん なるほどのう~。生まれ育った環境からは、そう簡単に出られないのじゃな。わしも、育ちがいいので、品のないことはできんからのう。(え、ほんとかね)

わたし 『宗教の自然史』の最後の部分で「全体が謎であり、不可解事であり、解きえない神秘である」と述べているけど、それに続けて「疑念、不確実、判断中止が、この主題に関して、われわれのもっとも精密な探査の唯一の結果である」と断じている。つまり、ヒュームは宗教や神が人間に意識されていく歴史を述べてみせたが、同時に宗教的な感情や知性的な存在への感覚はもっていたんじゃないかな。もちろん、それは理性で証明するとかいう話ではない。だから、その先は「判断中止」にしておくということなんだろう。

フク兄さん ……あ、食事の用意ができたようじゃな。よし、よし。もう少し飲みたいしのう。(ほんとに、耳はいいんだから)

わたし ちょうどいい感じだね。では、食堂に行こうか。ヒュームはもう1回やりたいな。ルソーとの喧嘩とか、アダム・スミスとの親交にも触れたいし。

フク兄さん 今回は分かったようで、分からないところで判断中止ということじゃな。まあ、たまには、そういうのもいいか。さあ、もっと会津のお酒を飲もうぞ。

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