フク兄さんとの哲学対話(24)デイヴィッド・ヒューム②人間は知覚の束である

あたふたしていたら、あっという間に2カ月近くたってしまった。フク兄さんとデイヴィッド・ヒュームの第2回目の対話をすることになっていたのに、今回はちょっと間が空きすぎた。何とか時間をつくってフク兄さんの家を訪れると、フク兄さんは上機嫌で、すぐに対話が始まった。例によって( )はわたしの独白。

フク兄さん おお、ひさしぶりじゃな。ヒュームさんという人は、わしにそっくりなので、彼の哲学について語るのを楽しみにしておった。さて、今日は……

わたし 前回は伝記的な話をしたけれど、今回は『人性論』について取り上げることにするね。この著作は、日本ではヒュームの主著とされているけど、実は、20歳代に書き上げたものであることは、前回話したとおりなんだ。でも、その完成度からいっても、また、この著作での主張が、その後もほぼ変わらなかった点からも、主著といって支障はないといえるね。

フク兄さん おお、なんだか、わしの秘密が明かされるような気がするぞよ。

わたし この著作は3つの部分からなっていて、第1篇が「知性について」、第2篇が「情念について」、第3篇が「道徳について」というわけで、いまでいえば認知理論をやって、情念論に進み、さらに倫理哲学をまで論じて、1冊の本に収めたようなものなんだね。というわけで、まず、第1篇の「知性について」なんだけど、驚くべきことにヒュームはここで、それまでの哲学諸説すべてに反対するかのように、人間の理性はあまり大きな役割を果たしていないと断言したんだ。

フク兄さん わしは、少しも驚かんぞ。人間の理性というものが、それほどのものではないことは、人間社会を見ていれば分かる。(ここで驚いてくれないと、困るんだけどなあ)

わたし 簡単に説明するけど、ヒュームは人間の知的活動は、そのすべてが「印象」と「観念」からなっていると述べている。印象というのは見たり、聞いたり、嗅いだり、触ったりといった、知覚で得られたもの。それが記憶されて思い出すことができるようになったものが観念だといってる。観念は複雑なものもあるが、それは単純な観念が組み合わさったもので、単純な観念はすべてが印象から来ているという。だから、「人間は知覚の束」だというのだね。

フク兄さん 細かいことはいいが、その印象や観念で人間は考えるわけじゃろうな。それをあれこれ繋ぐのが理性というわけかのう。(あれ、けっこう鋭いことをいうなあ)

わたし もちろん、そうなんだけれど、理性はいくつもの観念の間の関係に整合性があるかという判断はできるけれど、何かを予想したり総合したりはできないとヒュームはいっている。たとえば、数学や代数のように規則とか法則がすでに分かっていれば、その体系内での計算はできる。でも、ある事件が起こったことを知覚して、その事件が何かと同じだとか、これからどうなるかといった予想を立てるのは、理性にはできない。

フク兄さん それでは、人間はどうやって事件と他の事件との関係を知ったり、これからの成り行きを予想できるのじゃ?

わたし まさに、そこなんだよね。人間が何か事件に直面したとき、必要なのは原因と結果の関係を知ること、つまり、因果関係を描き出すことが必要なんだけど、その役割を担うのは観念の関係をあつかう「理性」ではなくて、かなり蓋然性を含む「想像」だとヒュームはいっているんだ。

フク兄さん ふむ、ふむ……。想像を働かせて、事件の原因と結果を把握しようとするわけじゃな。しかし、想像というのはいくらでも野放図に広がるのが普通じゃないのかのう?

わたし そう、そう。想像は当たることもあれば外れることもある。ほとんど、当たるも八卦、当たらぬも八卦、みたいな話だよね。しかし、どんなに確度の低い想像でも、何度も経験すれば高い確度で当たるようになる。たとえば、背後に法則性が潜んでいる自然現象のような場合には、経験の積み重ねによって的中率は急速に上がる。まあ、人間社会の現象でも、経験を積めばそれなりに安定したものになるわけだ。

フク兄さん かなり不安定なもので、人間社会は動いておるんじゃなあ。……あ、そうじゃ。嫁が、お酒を送ってくれたぞよ。なんでも、近所の方からいただいたもので、そのおすそ分けだそうじゃな。(へー、カミサンもすみにおけないな)ほら、これじゃよ、『雪の茅舎』。秋田のお酒じゃが、これが旨いのじゃよ。さあ、さあ……(なんだ、俺はぐい飲みか)

わたし おとととと、……ぐび、ぐび……ぷふぁ~! おお、確かに旨いな。さ、フク兄さんも、どうぞ。(あ、やっぱりフク兄さんはご飯茶碗かあ)

フク兄さん おとととと、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび……ぷふぁ~! おお、秋田の清明性がしみわたるぞよ。

わたし それで、ヒュームがこうした因果関係を検討するなかで論じたのは、実は、人間の知性は知覚によって生まれる印象に依存していること、理性といわれる能力は意外に小さな役割しかないこと、人間生活を作り出している因果関係は不安定な想像に依っているんだけれど、経験の積み重ねで安定するということ。さらに、もうひとつ、人間社会というものは、経験の積み重ねから形成された「習慣」によって支えられているということだったんだ。(あれ? もう、フク兄さん、目がとろんとしているぞ)

フク兄さん わしにしてみれば、どれも当然のことじゃが、当時の社会では度外れたことを主張したんじゃろうなあ。

わたし それは度外れたことだった。ヒュームは後書きにあたる部分で、「いたるところから、論争、否認、怒り、中傷、非難が起こることは分かっている」と書いている。前回も話したように『人性論』はさっぱり売れなかったから炎上したわけではないが、「人間には理性があり、それは神に与えられたものであって、理性によって生きていくことによって、人間は神が望む世界を作り上げられる」といった「理性の時代」の論者たちからは呆れられ憎まれた。また、この著作のヒュームの議論の中には、神の存在がほとんどない。そのことでヒュームは、無神論者として糾弾されることになっていく。(あ、寝ているな)

フク兄さん ……、あ、起きておるよ。大丈夫。では、ヒュームは無神論者だったのかのう。……ヒック(わたしが来る前から、もう飲んでいたんじゃないかなあ)

わたし その問題は、第2篇、第3篇とともに次回に譲ることにして、今回はもうひとつ、論争を呼んだ彼の新説を紹介しておくね。ヒュームは因果関係を論じるさいに、その応用として「同一性」の問題を提示している。つまり、今日の私と明日の私が同一であるといえるか、という問題なんだ。たとえば、石ころでも小さな傷をつければ、今日の石ころと明日の石ころは同一とはいえなくなる。しかし、人格の場合にはどう考えるかという問題で、これはヒュームの因果関係の議論とともに、哲学の難問のひとつとしていまも論じ続けられているんだ。

フク兄さん ……………(やっぱり寝てしまったかな)

わたし え~と、ヒュームは、知覚によって次々に新しい要素が人間の知性に加えられているのだから、人格は同一だということは難しいのに、同一だと認めようとするのは、記憶によって同一性を見出そうとするからだと説明している。もちろん、物質的に見れば、たった1日でも今日の私と明日の私は、多くの細胞が入れ替わって異なっているわけだけどね。………あ、寝ているな。フク兄さん、フク兄さん。

フク兄さん ……あ、寝てはいないぞよ、ほんとじゃ。さて、もう少し飲むぞよ……ぐび、ぐび、ぐび、ぷふぁ~、この酒は実に旨いのう~。

わたし ベーさんから「うちの宿六に、3合以上は飲ませんようにな」ときつく言われているんだけどなあ。もう、3合以上飲んでいるよ。

フク兄さん ダイジョウブじゃよ。いま少しばかり寝たので、もう、さっきのわしは変わってしまって同一ではない。今飲んでいるのは、わしであってわしではないのじゃ。もう3合飲めるぞよ。ほっほっほっほ。

わたし やれやれ、記憶をたどれば、フク兄さんは酒に関しては、いつも同一だな。

 

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