フク兄さんとの哲学対話(25)デイヴィッド・ヒューム③人間の情動が道徳を生み出す

不思議なことに、フク兄さんはヒュームに対しては、異様ともいうべき親愛感をもっているらしい。しかし、それがなぜなのか、さっぱり分からない。今回もきわめて意欲的に対話しようとするので驚いたのだが、こういうときには注意が必要かもしれない。( )内は例によってわたくしの独白。

フク兄さん 前回はヒュームの『人性論』のなかの「知性について」を語り合ったが、今回はどういう段取りかの?

わたし 今回は同じ『人性論』の第2篇と第3篇にあたる、「情念について」と「道徳について」を取り上げるつもりなんだけど、ふつうは第1篇の「知性について」と第2篇の「情念について」がセットにされることが多いんだ。

フク兄さん ほう、それはまたどうしてじゃ?

わたし 実は、単純な話で、まだ20歳代のヒュームが満を持して『人性論』を刊行したとき、まず、1篇と2篇を1冊にしていたからなんだ。もちろん、それはそれなりの意味はあったのかもしれないけど、全体の構成からみても、また、後世への影響からしても、2篇と3篇はより密接な関係にある。

フク兄さん もったいをつけていないで、ずばっと言ってほしいぞよ。

わたし 知性についての第1篇で注目すべきことのひとつは、人間にとって「理性」というのは、論理的に真か偽かを判断するには役に立つが、ものごとの関連性、特に因果関係を判断するときには役に立たないと述べていることだったよね。

フク兄さん そう、そう。それまでの哲学者たちは、何を判断するにも頼りになるのは理性だと、最初から決めているようなものだった。それが違うといったわけじゃな。

わたし 第2篇の「情念について」では、さらに、人間を動かしているのは理性ではなくて、情念なんだと言い出して、当時の人たち(少数だったけど)を驚かした。つまり、人間は何かをしようという意志をもつのは、理性でものを考えた結果ではなくて、情念がそうさせているからだ、というわけなんだ。

フク兄さん おお、それは分かるぞよ。わしの場合も、なによりも酒が飲みたいという情念が、わしの行動を決めているわけじゃからなあ。(ちょっと違う気もするけど、ま、いいか)

わたし しかも、ヒュームはそういう場合にも、情念が何かしたいという意志を生み出して、理性はその目的を達成するために、道具のように使われているだけなんだとまで言っている。それ以前にも情念を論じた哲学者はいた。たとえばデカルトは晩年に『情念論』を書き残して情念の意義を指摘したけど、それは「情念を理性によって制御すれば、もっと大きな可能性が開ける」というようなことだった。

フク兄さん わしの場合も、酒を飲もうという意志が生まれてから、その目的を達するために、幼いころには神童といわれた、わしの才能を使っているわけじゃかならなあ。(そんな話は聞いたことがないなあ)

わたし ともかく、ヒュームが情念をどう論じているか、ざっと述べてみるね。情念には一次的なものと二次的なものがあるという。たとえば、快とか苦というのは一次的な情念、誇りの感情とか卑下の感情というのは二次的な情念。ヒュームは立派な行為をした友人を誇りに思うのは、友人の行為あるいはその情報を見て、快の感情を起こしたからだという。その逆に、間違った行動を行った仲間を軽蔑するのは、仲間の行為あるいは情報を見て苦の感情を起こしたからだというわけだ。

フク兄さん なるほど、より根源的な情念が一次的で、そこから生まれてくるのが二次的というわけじゃな。ふむ、ふむ……。ところで、弟よ、そろそろ、集中力を高めるために、必要なものが出てくるのではないかのう。

わたし え? ……あ、そうそう。カミさんから預かってきたのがあったんだよね。……ほら、これだ。

フク兄さん おお、「鷲の尾」の金印ではないか。

わたし へえ、さすがだね、知っているんだ。(やっぱり詳しいなあ)

フク兄さん 岩手は八幡平の地酒じゃよ。(お、さっそくいつものご飯茶碗だ)……さささ、注いでおくれ。……おととと、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぷふぁ~。こりゃ、いい! さあ、お前もどうじゃ。(またしても小さなグイ飲みか)

わたし おととと、……ぐび、ぐび、ぐび、おお、うまいなあ、これは。地酒だというから癖があるかと思ったけど、甘口なのにしゃきっとした酸味がここちよい。……それで、ヒュームの情念論なんだけれど、細かいところははしょって、わたしたちを何らかの行動に駆り立てるのは理性ではなく情念だといいながら、その情念については「快や苦のほかに、自然な衝動もしくは本能からしばしば直接的な情念が起こる。この衝動とか本能はまったく説明しがたい」と述べている。

フク兄さん ほう~。

わたし つまり、何か得体のしれないものが、人間を根源で動かしているというわけなんだ。その例として、敵への攻撃感情、友人の幸福への願望、食欲、性欲、その他の身体的欲求をあげている。ここまでくると、もはや人間=理性的という幻想は微塵もない。

フク兄さん 分かるぞよ、本当に分かる。わしを動かしているのは理性ではない。そうではなくて情念であり、何だかわけのわからないものなのじゃよ。(そんな風に賛同されてもなあ……)

わたし では、人間は何を基準にして行動しているのかという問題に取り組んだのが、第3篇の「道徳について」なんだけど、すでに人間を動かしているのは理性ではなく情動だと考えていることは分かった。それが、どうやって道徳に結びつくのだろうか。そこが問題になるわけだね。

フク兄さん ふむ、ふむ。……情動とか本能で、はたして道徳が生まれてくるのだろうか、という疑問が生まれるのう。ふつうに考えれば、悪いことしか生まれない気もするが。

わたし 道徳のなかで多くの人に認められている「正義」で考えてみよう。たとえば、友人が正義に従って行動していることを、わたしたちは誇りに思うわけだが、それは何故なのか。ヒュームはこの場合でも、その誇りは友人の行動を見たさいの、快の情動なのだというんだ。ただし、この場合には多くの人に同じように、快の情動を生みだすことが条件となる。多くの人がある行動を見て、「これにたいしては快を覚える」「快の情動から誇りの情動が生まれる」となれば、それはその社会を支える正義になっていく。

フク兄さん なるほどのう、多くの人が見て快を覚える行動は、誇りも感じさせるとなれば、それが社会の正義だということになるわけか。……で、いったん正義になると、逆の作用も働くかもしれんな。(おお、まるでヒュームが乗り移ったようだな)

わたし そうそう、これが正義だとなれば、今度は教育を通じて、こうした正義の行動をとるべきだという多くの人の道徳感情となっていく。ヒュームはこの正義の形成を、美の共通感覚と比較しながら論じている。多くの人がこれは美しいと思う情景や人間の動作は、快の情動を生み出し、その情景や動作への共通した称賛を生み出す。そういう情景や動作は「美しい」ものとされるというわけだ。これが人間に見られる「共感(シンパシー)」なんだね。

フク兄さん おお、それこそ、わしが言いたかったことじゃよ。(フク兄さんのヒュームへの異様なシンパシーも極点まで来たなあ)

わたし 共感が働くから同じ正義や同じ美的感覚が生まれる。「共感が人間性のうちにあるきわめて強力な原理である」とヒュームは述べている。こういう意味で、正義も美も「自然」なものとして最初から備わっているわけではなく、人間が作り上げたという意味で「人為」だとヒュームはいう。もちろん、その根底にはよく分からない人間の情動や本能が横たわっているわけだけれど。

フク兄さん いや~、今日は本当に有意義じゃったのう。ヒュームさんという人は、この世の人間というものがよく分かっておるのう。さあ、ここらへんで対話はいったん切り上げて、あとは情動の赴くままに、この酒をこころゆくまで楽しもうぞ。(今回は、寝てしまわないんだな。ちょっと気味が悪いけれど)

わたし でも、もうお酒の瓶はほとんど空になっているよ。これも自然になくなったわけではなく、何者かの行為によって生まれた現象ではある。その根源に情動があったことはまちがいないな。……次回はヒュームが後世に与えた影響と、彼の宗教についての考え方を、もう一度語り合ってみることにするね。

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