ペテン師と経済学者の間:ジョン・ローの肖像(1)
18世紀の初めころ、ヨーロッパを渡り歩いていた博打打ちが、パリにたどりつき、たちまち貴族たちの集まるサロンで頭角を顕わし、太陽王ルイ14世が逝去した直後の空白に乗じて、フランス王国の財政を仕切るようになる。
こうした小説のような物語を生きたのがジョン・ローだった。彼は幼いルイ15世の摂政オルレアン公の後ろ盾を得て、フランス史上初の中央銀行を設立した。また、新大陸にあったフランスの領土を担保にして債券を発行して、相次ぐ戦争で当時のGDPの2倍にあたる王室の負債を解消しようと苦闘する。もちろん、自らの法外な出世も財産も手にしてゆくのだが。
ジョン・ローについては拙著『世界史を変えた詐欺師たち』(文春新書)の第1章で取り上げたが、従来は口先だけの詐欺と断じられた彼の「理論」は、その後、ヨーロッパに誕生する経済学を先取りしていた。さらに、その政治経済学的な手法も、いまのものと大筋変わらないものだった。
しかし、大規模な金融革命や構造改革を推進するには、そのための経済指標もデータもまったくなかった。ヨーロッパを博打打ちとして放浪して歩きながら学んだ現実の金融システムの知識と、幼い時から示した数学的天才によって、新しい道を拓くしかなかったのである。
こういえば、いかにも先駆者の悲劇のように聞こえるが、実際、ジョン・ローには怪しげな経歴がつきまとい、また、女癖も悪く弁舌もさわやかすぎたので、よくいってペテン師、わるくすれば魔術師のような人間として気味悪がられた。
そもそも、彼は20歳をすぎたころから、ロンドンで女たらしの博打打ちとして知られるようになったが、ある女を取り合った相手と決闘するはめになる。勝負には見事勝ったものの、相手が有力貴族の息子だったために、単なる殺人とされて死刑を宣告され、友人たちの助けで脱獄してヨーロッパ大陸に渡った、というのがその前歴だったのである。
まだ絶対王政の続くヨーロッパを舞台に、自らの才能だけでのしあがるピカレスクの一端は、拙著でお読みいただきたいが、ただし、晩年のジョン・ローについては、死に場所となったヴェネテチアでのことしか触れていない。
実は、反対勢力に屈してフランスの財政改革に失敗した後、彼は英国に自らを売り込んで、東欧諸国を英国の大使として歩き回った。この節操のなさもペテン師と断じられる理由なのだが、ここでも彼は何カ国語も話せるという驚異の才能で活躍する。
しかし、英国政府は彼の才能を飼い殺しするために雇っただけで、本気で彼の才能を使おうとしているのではなかった。悲惨な人生の黄昏だった。ジョン・ローの本格的伝記を書くとすれば、この悲惨な時代こそが、彼の謎とアイロニーに満ちた人生の最終章となるはずである。
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