フク兄さんとの哲学対話(43)ヘーゲル②『精神現象学』を湖畔で読み解く

前回からだいぶたってしまって、フク兄さんは怒っているかもしれないと思ったので、こちら持ちで温泉に誘うことにした。どこがいいか聞いたら海のそばがいいというので、茨城県の潮来にある温泉ホテルに招待し、ヘーゲルの話の続きをすることにした。他の家族もいっしょにいったので、彼らがお風呂や買い物で部屋をあけたときに対話した。例によって( )内はわたしの独白。

フク兄さん いい眺めじゃのう。目の前に広がるのは北浦かのう。食事もいいみたいだし、哲学対話にふさわしいぞよ。

わたし え~と、今日はヘーゲルの続きで、独自の立場を確立したといわれる『精神現象学』について語り合いたいんだけれど。

フク兄さん おお、あそこに飛んでいるのはユリカモメかのう。飛ぶ姿が美しいのう。(ぼくを、まったく無視して、窓からの風景を見ている)

わたし うほん!(お、こっちを見た)それじゃ、始めるね。前回のおさらいをすると、ヘーゲルという哲学者はドイツ南西部のシュヴァーベン地方に、収税局職員の子として生まれた。牧師になるためチュービンゲン大学神学部に入学したけど、時代はナポレオン戦争のまっただなか。また、詩人となるヘルダーリンや天才肌の哲学者シェリングと友人となったこともあって、彼自身が哲学者をめざすようになる。はじめは年下のシェリングの祖述者と見られたのだけれど、いつの間にか独自の哲学体系を構築するようになり、その体系の最初の著作が1807年刊の『精神現象学』だったんだね。

フク兄さん ふむ、ふむ、そこらへんは覚えているぞよ。

わたし ところが、この『精神現象学』という本は、難解も難解、彼の思想が確立したというのだから、ヘーゲル研究者はこの本を読まなくちゃならないんだけれど、読めば読むほど、何を言っているのかわからないので、そこで立ち往生すると言われているんだね。

フク兄さん ん~、そんならヘーゲルさんを専攻しなければいいようなもんじゃがなあ。

わたし そこらへんが人間の心理の不思議さで、分からないとなると、逆にどうにか分かりたいと思うわけなんだ。分からないという声は、日本の研究者も同じで、翻訳者のなかには正直にどう訳せばいいのか苦しんだと告白する人もいる。まあ、この著作がかなりの速度で書かれたこと、それからまだ完全には思索しきれていないということもあるのだろうけど、そもそも難解の原因は、その哲学のユニークさにあると見てよいと思う。

フク兄さん 前口上はいいから、ヘーゲルさんは何をいいたかったのじゃ?

わたし いきなり本質的なところにきたけど、あえて言えば、人間の(広義の)精神というのは、どう生まれて、どう育って、そしてどこまで到達するのか、ということだと思う。かつては盟主あるいは師とも仰いだシェリングの哲学を、「暗闇ではどんな牛も黒い」と揶揄して展開したのは、人間の精神が「意識」から始まって「自己意識」に高まり、さらに「理性」をへて「精神」となる過程であって、どくとくの記述法でえんえんと述べているんだ。そして、「精神」からさらに「宗教」をへて「絶対知」となるまでを、飽くことなく細かに複雑に叙述している。

フク兄さん なんかよく分からんが、もう、そう聞いただけで読む気がしないのう。……そうじゃ、さっき冷蔵庫に入れていた紙袋をだしてもらおうかのう。地元の商店で買っていたようじゃったが。(げげ、みられたのか)

わたし しかたないなあ。ここにはドンブリはないけど、このコップでがまんしてね。ぼくはこの小さいほうのコップにするから。……ほら、地元の銘酒「純米酒 愛友」だよ。

フク兄さん おお、まず飲ませておくれ。ほら、これに(な、なんだ、ちゃんとドンブリを持ってきている)。おっとととととと、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぐび、ぷふぁ~~~! おお、うまい! この古風ともいえる清冽な味わいは得難いのう。愛友はやはり純米酒がええ! お、おまえも飲め。さ、さ、さ、遠慮するな。(ぼくが買ってきたんだけどなあ)

わたし お、とととと、ぐび、ぐび、おお、これはすっきりしてる。わずかの酸味が全体をひきしめている。……さて、順を追って話すとね、まず「意識」なんだけど、これは「単なる意識」であって、ただ認識しただけの段階だね。その「意識」の最後の段階では「悟性」が働くようになるけど、翻訳者によっては悟性を「科学的思考」と意訳しているように、ニュートンなどの自然科学者が、宇宙のなかに地球とか月とかの位置を見出せる精神の段階で、その位置は分かっても、さらにそれがなぜなのかなどとは分かっていない。その星たちの認識が意識に入り込んで、さらに意識からその自然の現象に戻るということが起こらない。

フク兄さん ほう、もう、その程度で自然科学というのはできてしまうのじゃな。

わたし と、ヘーゲルは考えている。ヘーゲルの自然科学に対する評価は低くて、さらに、自然科学の知識も、いまの科学常識からするとデタラメといわれる。でも、哲学史的にはここらへんに注目して、ヘーゲルの思考が自然科学に取り込まれていない点を指摘する哲学者もいるんだ。たとえば、ハンス・ゲオルグ・ガダマーなどは、ここに科学的思考つまり悟性が、人間社会の本質には到達できないことが表されているというんだね。

フク兄さん ヒック、え~と、もっと先にいかないと真理には到達できないというわけじゃな。ヒック!

わたし さっき言った、「意識」「自己意識」「理性」「精神」の各段階は、それぞれの間で飛躍のように見える動きをするのだけれど、意識から自己意識への移行は、まさに、意識が自分自身を把握できるようになる段階だと考えている。そうした自己意識が自由を獲得することで理性へと達するが、この自由はまだ個人のものに過ぎない。さらに自由を得た理性が共同体にかかわることで精神の段階に入るとヘーゲルは説明している。ここらへんは、たとえば、ある人間がその集団に属するようになって「〇〇精神」のようなものを身に着けていく過程を考えると、そのいくぶんかは理解できるかもしれないね。

フク兄さん う~い、愛友飲んで、ついに愛友精神に到達したぞよ。ああ、いい気持ちじゃ。愛友、愛友、愛友、いい言葉じゃなあ。(こりゃ、完全に酔ってしまったな)

わたし え~と、フク兄さん、ちょっと散歩しよう。窓から道が見えるだろ。その道の先に、ハクチョウやユリカモメ、それにカモ類が集まるところがあるらしいんだ。

フク兄さん おお、それはいいのう。カモさんたちに、わしらの精神の達成度を見せにいこうぞ。ヒック!

【ホテルのロビーをこっそり抜けて、近くにある「ハクチョウの里」といわれる、北浦の岸辺にむかったのであった】

フク兄さん さっき言っていた精神に到達したあとは、どうなるんじゃ。ヒック!(おお、冷たい風にあたったせいで、頭がすっきりしたようだな)

わたし 精神はさっき言った共同体精神から、さまざまな経験をへて教養へと高まり、さらに自分に確信のもてる道徳の段階に到達していくんだ。

フク兄さん 人間の精神というのは、まるで旅をしながらえらくなっていくのじゃな。ヒック!(おお、するどい)

わたし そうなんだ。この『精神現象学』は、ゲーテの教養小説『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』を下地に書いたのではないかと言われてきたんだ。つまり、まだ青少年のウィルヘルム君が、旅芸人一座と旅を続けるうちに、さまざまな体験や思い、希望や絶望と直面しながら、しっかりとした人物になっていくように、人間の精神も旅を続けてひとかどの道徳をもった段階に来る。その最終段階は良心ということになっている。

フク兄さん ほっほっほ、まさにいまのわしの境地じゃのう。(なに、いってんだか)

わたし でも、ヘーゲルの精神のほうは、まだ旅を続けるんだ。「意識」「自己意識」「理性」「精神」の次は「宗教」の段階に入る。そこでは、ヘーゲルはこれまでの4段階と同じようなプロセスで、ただし、今度は宗教の領域のなかで高まって、自然宗教、芸術宗教、啓示宗教と、これまでの人間の宗教史をなぞる過程を記述していくことになるんだ。

フク兄さん なんだか分からないが、鳥たちが飛んでおるのう。すごい数じゃ。カモさんたち、ユリカモメたち、それから数は少ないがハクチョウさんたちもおる。おお、誰かがエサを撒いていて、そのたびにユリカモメが大勢で旋回しておるぞ。すごい、すごい!

わたし ちょっと駆け足になってしまったけれど、ヘーゲルの『精神現象学』はいよいよ最後の章に達することになる。そこは「絶対知」と呼ばれ、それまでのすべての段階の果てに到達すると境地だというんだね。それは学問のみが、たどり着ける境地だということらしい。(やっぱり、こりゃ、寒いな)

フク兄さん 学者先生の学問が神さんの宗教より上だというのは、ちょっと分からんが、まあ、ヘーゲルさんは学者だということじゃな。おお、ハクチョウが動きだした、このまま飛び上がりそうじゃ。……おお、美しい姿で空中に浮き上がっておる。寒風のなかを遥か彼方まで旅をするのかもしれんのう。これこそわしの美しい絶対知のイメージじゃ。

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