フク兄さんとの哲学対話(18)ジョン・ロック②経験を生かすには神が必要だ

この夏はコロナ禍のため移動が制限されていたが、以前から予定していた長野県の白樺湖と福島県にある岳温泉には、なんとか行くことができた。その後、寝ている間に捻ったせいか、わたしの足の具合が悪くなってしまった。今回はフク兄さんが来てくれて、ジョン・ロックの第2回目の対話が始まった。例によって( )内はわたしの独白。

わたし すみません。わざわざ仕事場に来てもらって。まだ残暑が厳しいので、来てもらうのは心苦しかったけれど、あんまり間を置くのもなんだから……。

フク兄さん いや、いや。今日は30度を少し超す程度だったから、比較的楽じゃった(おお、なかなか寛容だなあ)。これが38度とか39度とかなら、とても外を歩けたものじゃない。コロナ予防のマスクをしておるでな、茹で上がってしまうぞよ。

わたし それで、さっそくだけどジョン・ロックの続きに入るんだけど、今日はロックの認識論というか哲学の核というべき『人間知性論』を取り上げてみたい。前回述べたように、ロックはいっぽうで革新的な経験論哲学の先駆者といわれながら、他方ではピューリタンとして神への信仰に最後までこだわっていたと言われる。

フク兄さん そこのところなんじゃが、経験論哲学なのに神を前提としているというのが、そんなに問題なのか。そもそも、経験論哲学というのはどんな哲学なんじゃ?

わたし え~と、(なんだか、振り出しからやることになりそうだな)一般的なイメージでいうと、人間の知的活動について考える場合に、当時のキリスト教の思想では、神が人間に生得的な能力を与えたと考えるわけなんだ。ものを考えるさいの観念についても、それはすべて、神が人間に最初から与えてくれたものだということになる。

フク兄さん ふむ、ふむ。神さまは全能だから、人間がもっているものもすべて神によると考えるわけじゃな(お、学習効果が上がっているぞ)。

わたし それに対して経験論哲学は、「そうじゃない、人間は神によらない自分の経験で得たもので、ものごとを考えることができる」と主張するわけだね。実際、人間は生まれてからさまざまな経験をして、それを記憶して何かを考えるさいの材料にしている。抽象的なことでも、経験を重ねてそれらをまとめる抽象概念でくくったりするわけだね。

フク兄さん ふむ、ふむ。それはわしでも同じじゃったな。今日のように暑い日には、出歩かないほうがいいというのは、まさに経験から得られた知識じゃからな。ほっほっほ。……しかし、そうした経験を記憶したり、記憶をまとめたりするのは、なぜできるんじゃ。(あれ? けっこう、突っ込みがするどいな)

わたし まさに、ロックはその問題を突き詰めているんだ。日本では「誰がお前の健康な身体を与えてくれたのか」といえば、「そりゃ、両親だろうな」と答えるかもしれないけど、ロックの時代の敬虔なキリスト教徒なら「神に賜った」というかもしれないね。

フク兄さん で、ロックはどう考えたんじゃ?(なんだか、真剣だな)

わたし 順序だてて話していくね。ロックは頭のなかでものを考えるさいの心象、思念、形象などなどを、ひっくるめて「観念」といっている。ちょっと大雑把で批判もあるけれど、それは今日は措くことにする。ともかく、この「観念」は人間が感覚を通じて経験したものから生まれる、ということをロックはいったわけなんだ。

フク兄さん それほど過激な考え方とは思えんがのう……。

わたし ところが、これだけでも、観念が神から与えられた生得的なものとする、当時のキリスト教の聖職者たちからは、激しい批判を受けることになったんだ。話を先に進めるけれど、ロックは観念を経験で得ただけの「単純観念」と、頭のなかで単純観念がいくつもくっついたような「複合観念」があるといっている。

フク兄さん ………(あ、目がおよいでる)

わたし ここらへんは細かく説明すると大変だからはしょるけど、興味深いのは、そうした観念を頭の中で使って考えるために、言葉があるというんだ。それぞれの観念に対してそれぞれの言葉がある。しかも、その言葉の段階になると、ロックは身をひるがえしたように、神から与えられた能力だと言い出すんだ。

フク兄さん あ、やっぱり神さまなんじゃなあ。……そこらへんは、もっと詳しく話してもらうことにして、その前に、ちょっと準備がいるな、これは。(え? 準備)

わたし え~と、準備というと……

フク兄さん 弟よ、相変わらず勘が悪いのう。こういうときには、水分と気分が必要じゃろが……。

わたし ああ、気分ね。………もちろん、用意してあるよ。今日はこれでどうだろう(お酒のことなら、はやくそういえよ)。

フク兄さん おお、澤乃井の「純米大辛口」じゃないか。では、では………おとととと、ぐび、ぐび、ぐび……ぷふぁ~。……やっぱり、こういうときは、東京の酒がいいのう。さあ、お前もいっぱいどうじゃ。

わたし ややこしいところに差し掛かっているから、一杯だけにしておくね。おととと、……ぐび、ぐび、ああ、しみる。青梅の酒も悪くないなあ。ところで、お酒が回るまえに、肝心の部分は話してしまうね。ロックの文章を読み上げると「神は人間を社交的な被造物であるように意図したので、同類の人間と仲間になりたい心的傾向を与えただけでなく、その道具であり共通の紐となる言葉を備わせた」というわけなんだ。

フク兄さん ふ~ん、なるほど。なるほどと思うが、それなら観念もいっしょに、人間に最初から備わせてしまえばよかったのではないかのう。

わたし そうなんだよね。しかし、ここらへんがロックの思想の奇妙なところだけど、また、ロックの思想を深く理解するための肝でもあるかもしれないんだ。意地悪く見れば、神様はある程度のところ以上は生得的なものを用意してあるが、それ以下の部分に関しては人間それぞれに努力させるように仕組んであるわけだ。そのいっぽう、「神への義を果たす」というロックの信仰のあり方からは、これが自然だったともいえる。

フク兄さん しかし、何で神さまがそんな面倒なことをするのか、ちょっと分からんのう。

わたし たとえば、ロックは「心に生得的な観念はない」と言っているだけでなく、「生得的な実践原理もない」と述べている。つまり、正義とか信義とかいった、「こうすべきだ」という道徳的な原理も、人間が経験で得た観念を手掛かりにし、言葉を用いて考えをめぐらして到達しなければならないことになる。ロックに言わせると、道徳についても数学の証明をするのと同じように、知的な努力で到達できるという。

フク兄さん そんなの、わしはとてもやってられんのう。(たしかに、そうだよな)

わたし さらには、神がいるか否かについても、生得的に分かるようにはしていないので、人間が知的な営みで証明するしかない。ロックによれば「神は自分が存在することを人間の心に捺印してくれなかったが、そのかわり、人間の心に与えられている知的な能力によって証明できる」と断言しているんだね。

フク兄さん ふむ、ふむ。それで、その証明はうまくいっているのかの?

わたし これが何とも、分かったような分からないような……。以前、デカルトのところで紹介した本体論的証明と似ていて、人間は自分自身が存在することは直感的に分かるから、それを起点にして神の存在を演繹できるというんだ。また、人間が不十分ながらものを考えられるのは、神がすべてのことを完璧に考えられるからだというんだね。ここだけは、どういうわけか経験の帰納法ではなくて、演繹法で解くということになっている。

フク兄さん ………あ、聞いておるよ。聞いておるけど、酒のつまみ向きではないのう。

わたし いまロックの『人間知性論』を読めば、そこには神の存在や神の叡智がなければ成立しないような話が延々と展開している。むしろ、宗教者の文章と考えたほうが分かりやすいかもしれないね。でも、……ロックというと経験論哲学の先駆けだとか、近代民主主義の基礎を作り上げた思想家だとか。倫理社会や政治学入門でそう教えられたから違和感を覚えるだけで、まだキリスト教の影響力が圧倒的だった時代、キリスト教のなかでも純粋主義的なピューリタンが書いたものと思えば、納得できるような気もする。

フク兄さん ま、そういうことなんじゃろな。今回は、なんだか、酒がさめてしまったのう。いったん話を打ち切って「純米大辛口」を飲みなおすことにしようぞ。

わたし そうだね。次回は、いよいよ、ロックの政治思想について考えてみることになるよ。

●こちらもご覧ください

フク兄さんとの哲学対話(17)ジョン・ロック①波乱万丈の時代を生きる
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