ゆっくり考える(続々々);キーボードでなく手書きの効用が注目されるようになった

キーボードを叩いてノートを取ったり原稿を書いたりする。もう普通のことだが、本当は手書きのほうがいいのではないのか。そう考えている人はけっこう多い。とくに、ノートパソコンで講義を入力している学生や、何らかの形で原稿を書いている人の場合、どうも記憶に残らないとか、文章が軽くなってしまうと感じる人は少なくない。

英経済誌ジ・エコノミストには「ジョンソン」という連載コラムがあって、おそらく一風変わった英語の辞典をつくったジョンソン博士にちなんだ命名ではないかと思うが、9月14日号は「手書きの重要性がますます分かってきた」というタイトルである。普段、どうも自分はキーボードでノートを取ると忘れてしまうと思っている人、中年以上で手書きのときのほうが、自分の文章はよかったと感じている人は、概略を書いておくので参考にされたい。

教養のあるビジネスマンを対象にした雑誌らしく、いきなりソクラテスの話から始まる。ソクラテスは弟子たちがメモを取るのを嘆いていたという。哲学的議論は記憶にとどめておいてこそ生きるのだが、そのための記憶力がダメになってしまうということだったらしい。もちろん、ソクラテスは査読をしてもらう必要はなかったと同コラムは述べているが、また、哲学は生きた言葉で議論してはじめて成り立つとも考えていたからだろう。

しかし、事態はいままったく逆の状況になっている。いまや義務教育や大学でも教室にノートパソコンが持ち込まれ、先生が話すことは一部始終そのままパソコンに収められる時代となった。そうなってみると、こんどは別の心配が生まれてきたのである。つまり、こういう教育の在り方は、知識を蓄えることとか、ものを考えるという観点からして、果たして好ましいのだろうか。

もっとも注目された手書きのほうが良いという議論は、同コラムによれば、2014年、パム・ミューラーとダニー・オッペンハイマーによって提示された。学生たちがキーボードで授業をノートに取れば、多くの単語やフレーズをあとで見直さなくてはならない。ということは、先生が話してくれたことをその場で素早く理解することはできていないということではないのか。

いっぽう、とくに大学レベルの講義の場合、手書きでノートを取れば、先生が話した内容を自分の言葉に置き換えて記録するので、いってみれば総合的に(むかしの学生言葉でいえばジンテーゼのかたちで)記憶されるのではないのだろうか。どうやら、試験の準備のときにも、生き生きと頭のなかによみがえらせることができるので、ずっと効果的らしいというのである。キーボードで先生の言葉をそのまま打ち込むのは、オームが言葉をマネするようなもので、内容がともなっていないのだとも指摘している。

もちろん、ここまで言うには根拠がある。これまでも多くの研究が行われており、手書きの効用が示されてきた。この数十年というもの、アメリカでも他の国たとえばスウェーデンでも、子供のときからキーボードを叩かせることが良いことだと考える風潮があった。しかし、いまや逆に子供教育ではノートパソコンの教室の持ち込みを禁じる試みも出始めている。しかし、キーボードの訓練は将来の生活を考えれば必要だというのも間違いではない。

ワシントン大学名誉教授のヴァージニア・バーニンガーは、長年、手書きの効用を指摘してきた論者だが、いずれにしても極端なやり方は意味がないと語っている。彼女によれば、みんなで読むような論文は、もちろん、キーボードで打ったものがいいし、それを禁止しても意味がない。ただ、いまの学生は機械に触れている時間が以前に比べて多くなっているので、学生生活の後期には手書きの時間を多くするなどの「調整」が必要だというのである。

ところで、このコラムを書いている「ジョンソン」自身(もちろんジョンソン博士ではなく)はどうなのかといえば、これまで数十年にわたって、コラムの初稿を紙にペンで書くまでは、手書きはほとんどしてこなかったという。もちろん、原稿を渡すときにはワープロソフトでデータにしているのだろうが、内容を考えているときには、あれこれ手書きはしないということなのだろう。

さて、では私の場合はどうだったかを振り返れば、30歳までは手書きだけで、日記のような私的な文章だけでなく、編集者としての仕事でも手書きで原稿を書いていた。それは当然で、安い日本語ワープがなかったからである。当時はキャノン製が200万円くらいしたし、その後、富士通が廉価版を売り出したときも50万円くらいだった。いわゆる98パソコンに日本ワープロが登場したのは私が31歳か32歳のころで、35歳のころにはようやく個人向けのワープロがブームになり、編集の仕事にもワープロが入り込んできた。

フリーの物書きになったのは42歳ころだったと思うが、このころにはワープロが当然視されていて、有無を言う余裕もなくワープロ派に転じた。しかし、原稿に1字ずつ書いていく感触は残っていて、私的文書はその後もかなり長い間、ノートに万年筆で書いていた。それから数十年たって、いまやワープロソフトだけになったが、ある時、思い立って手書きで原稿を書いてみた。書いているときは気持ちが良かったが、読み直してみるとやたらと理屈っぽい文章になっていたので驚いた。

しかし、手書きで書いた文章のほうが、実は、いまも文章としては自分のものだという思いは否定しがたい。つまり、私の手書きの文章は「売り物」としては理屈っぽいので価値が低いが、自分で何かを書きながら考えるさいには、ずっとしっくりくるのである。もう最初からワープロソフトでもの書きを始めた人たちに聞いてみると、まったくそんな経験はないとのことだ。ノートを取るのと原稿を書くのでは、かなり事情は異なるが、ゆっくりといったん体を通して書いたものと、素早く直接打ち込んだものとは違いがあって当然だろう。

さて、このコラムの締めくくりは、ふたたびソクラテスである。「ソクラテスが手書きについて否定的だったか、そうでなかったかは措くことにしよう。しかし、もし弟子のプラトンが後世のひとびとのためを思ってノートしておいてくれなかったら、誰もそんなことなど思い出しもしなければ、あれこれ気にする人間もいなかったのである」。

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