フク兄さんとの哲学対話(35)カント⑤『判断力批判』の「美しい」とはなにか

今回はカントの中心的著作とされる「三批判」の最後の『判断力批判』について、フク兄さんと語る。ただし、正直、ちょっと気が重かった。というのも、いろいろな出来事が重なったために、前回との時間的な間隔が大きくなっていたからだ。おそるおそるフク兄さんの家を訪ねたことを、読者は分かって欲しい。例によって( )内はわたしの独白である。

わたし いろいろあったものだから、カントの『判断力批判』について語り合うのが遅くなってしまって、もうしわけありませんでした。今日は、しっかりと話したいと思っているので、よろしくお願いします。

フク兄さん え、何のことじゃ? そのカントとかいう人は何者なのかのう。わしはまったく知らんぞ。(いきなり、これだ)そもそも、わしは何でお前がやってきたのかも、ちょっと分からんのじゃよ。年度末の挨拶にしては早すぎるし、季節の変わり目の旅行相談にしては遅すぎるからのう。

わたし え~と、かみさんがフク兄さんに渡して欲しいといって、これを持たせてくれたんだけど、気に入ってもらえればうれしいけれど……(あ、ちょっと反応があった)

フク兄さん 何じゃ、この袋は。わしは、こんなもの頼んでおらんぞ。(でも、もう袋を破っているじゃないか)。おお、これは茨城県は大洗の銘酒「月の井」ではないか。ほっほっほ、荒々しい海浜の酒じゃが、ゆたかな味わいがあるのじゃよ。お前にはすぎた嫁じゃなあ。……あ、さて今日はカントさんじゃったな。(けっこう、簡単に機嫌をなおしてくれたなあ)

わたし え~と、カントの『判断力批判』というのは、カントが66歳のときに刊行されたもので、一般には美学についての著作だとされることが多いんだね。

フク兄さん ほほう、美学とな。(なんだか、えらそうだなあ)

わたし 彼の「三批判」の掉尾を飾る著作だから、けっこう分量もあるし、わかりにくいところも多い。美しいとは何かを論じているかと思うと、いつの間にか合目的性という哲学のややこしいテーマに引っ張り込まれることになる。

フク兄さん 能書きはいいから、ともかく「美しい」とは何かという話から始めてみようぞよ。少し話をしたら、「月の井」をいただいて、元気をつけて、その「合目的性」とかも話してみればいい。(なんだか、今日は余裕がある感じだな)

わたし 美しいとは何かについては、すでに哲学史において長い歴史があった。でも、議論百出の分野で、なかなか共通性のある視点がさだまらない。それに対して、カントはまず「美しい」と人が思ったときの反応から話し始めているんだ。「これは美しい」と思うと人は、たとえば「これは快適だ」と思ったときや「これは倫理的にすばらしい」と感動したときとは違った反応をするというんだね。

フク兄さん わしが快適だと思うのは、何といっても旨い酒を飲んだときで、「これは旨いぞ、よくぞ、わしはこの酒に出会えた」と感じるのう。

わたし 快適については、「わしは」と感じる。その通りなんだ。でも、そのお酒を他人にも無理やり「旨い」と感じろと強要しようとはしないのが普通だよね。ところが、カントによれば、これは「美しい」と思うと、その判断について他の人も同じように「美しい」と感じているのが当然だし、他人にも「美しい」と説得したくなるというんだ。そのいっぽうで、このように「美しい」と思ったときには、なんともいえない「適意」に満たされるとも指摘している。この適意というのはヴォールゲファーレンの翻訳だけど、直訳すれば「十分に気に入る」ということになる。

フク兄さん お酒が旨いと思ったときには、いちおうは他人に奨めても、嫌いな人もいることは理解できるのう。ただ、残念だとは思うこともある。

わたし お酒のおいしさというのは、あくまで個人の感官によるもので、それは「美しい」とは違うというわけなんだ。そのいっぽうで、「これは倫理的に立派だ」というのは、前回の『実践理性批判』から考えても分かるように、人類はそれがなぜ立派かということを、説明できるようにしてきたわけだね。それは自然科学についての理論とは異なるけれど、倫理道徳についても、いちおう理論的に説得することはできるわけだ。そうしないと社会が成り立たない。

フク兄さん 倫理道徳については、数学や科学のような説明はできないが、形式において、それと似たような理論をつくってきたわけじゃな。(おお、よく覚えてくれているなあ)

わたし そこでカントはこの「美しい」から生まれる「適意」、つまり、「これでいいんだ」という満たされた感じをもつことも、人間の能力として考えたんだね。これまでの対話を振り返れば、対象が自然である場合に人間が発揮している認知能力は「悟性」と呼ばれる。これは知性とも訳されるのでややこしいけれど、明治以来の仏教語を用いた訳語では悟性なんだ。それから、前回の倫理道徳については、自然科学のような悟性はそのままでは適用できないけれど、形式としては応用できるわけで、それは「理性」とカントは呼んでいる。そして、この悟性と理性をつなぐものが今回の「判断力」だというんだね。

フク兄さん う~ん、自然法則について「悟性」で、倫理道徳が「理性」なのに、なんで美しいと認識する「判断力」が悟性と理性をつなぐことができるんじゃ?

わたし ここらへんがカントのカント哲学たるゆえんといえるわけで、全体が体系として成り立っていないと気がすまないという面もある。しかし、判断力による「美しい」という判断には、実は、悟性と理性を成り立たせている背後にあるものが、ぼんやり呈示されているというわけなんだ。もちろん、美しいと思ったからといって、その背後にある何ものかを直接認識したわけではないけれど、そこに何かあるという感じを持つ。それはカントによれば、この美しさは世界を動かしている目的のようなものがあり、それにかなっていという「合目的性」を感知しているという感動を得られるというわけだ。ただし、カントが「美しい」を論じる対象は、ほとんどが自然の美しさであることは注意が必要なんだね。たとえば、絵画のような人工的なものは自然の「美しい」の巧妙な模写だということになる。

フク兄さん 何だか分かったような、分からないような、あいまいな話じゃのう。

わたし あ、珍しく、まだお酒を飲んでいないよね。ここらへんで、「月の井」をいただこうよ。きっと「適意」を得られるかもしれないぞ。(あ、また大きなどんぶりがでてきた)

フク兄さん おお、おっととととととと。………ぐびぐびぐびぐびぐび、ぷふぁ~! おお、旨いなあ。心が満たされるのう。これはもう「美しい」といってよいのではないかのう。したがって、お前にもこの「美しい」を分け与えたいぞよ。さあ、さあ……(あれ、今日はご飯茶碗が出てきたぞ)

わたし あ、おとととととと、……ぐびぐびぐびぐび、ああ、これだなあ、と言う感じがするなあ。これはほんとに「美しい」かもしれないね。それにしてもうまい。この『判断力批判』の話はまだ続くからね。

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