『「空気」の研究』への致命的誤解:山本七平について(1)

毎年8月になると、山本七平の本を読み返したくなる。それは、惨憺たる敗北となった戦争において、七平が学徒動員で激戦地に送り込まれ、九死に一生を得た人間だったからだ。そして何よりも、戦後においても、そのときの体験を変容させることなく、そのまま維持しようとした稀有な知識人だったことが大きい。

なかでも『「空気」の研究』は、七平の膨大な著作を集約したような作品であり、そのいくつかの難点を含めて、繰り返し読む価値のあるものといえる。しかし、読むたびに不思議に思うのは、かなり多くの人が、その核心ともいうべき部分を放り出して、単純な教訓本でもあるかのように扱ってしまっていることである。

いうまでもなく、この作品は日本人に見られる「空気」の支配について語っている。そしてこの空気が日本人の決断を左右してきたと指摘する。それは小さな集団の決定から、国家の運命を決めたような戦略での判断にまで及んでいる。しかし、この作品がそれだけのことならば、職場における「同調圧力」についての、酒場での会社批判とさほど変わらないものになってしまうだろう。

先に結論をいってしまえば、七平が決して読みやすいとはいえないこの作品で語ろうとしたのは、空気が日本人の決定を左右するということだけではなく、その空気を批判するかに見えた言動そのものが、いつの間にか空気になってしまうということである。七平が用いた言葉でいえば、いったんは「空気」を崩壊させる「水を差す」という言動が、こんどは新たな空気となって日本を覆うということなのだ。圧倒的な空気によって戦争に駆り立てた日本社会が、戦後はたちまち平和主義に転じて、それが新しい空気になってしまったことに七平は愕然としたのである。

もうひとつ、作品の核心でありながらしばしば無視されているのは、そうした空気の交代にもかかわらす、日本社会は連続性を保っているのだが、それは独特の世界観に浸っているからだという指摘である。そして、この独特のアニミズム的な世界観は、ほかでもない天皇制度と不可分の関係にあるという、キリスト教徒としての七平が生涯をかけた指摘である。他にもこの作品に対しては多くの「ネグレクト」があって、それが気楽な酒場などでの「空気」談義を可能にしているのだが、今あげた2つの核に触れていない空気論はまさに空虚といってよい。

他の七平の作品がそうであるように、この『「空気」の研究』には、厳格なキリスト教徒の家庭に生まれて宗教なるものと格闘せざるを得なかった運命と、すでに述べたように陰惨なフィリピンでのジャングル戦を戦った人間として、戦前日本のみならず戦後日本に対しても、激しい懐疑を抱かずにはいられなかったという体験が、大きな影をおとしている。

そもそも空気については、日本人はいまも日常的にアンビバレントな精神的態度を持ち続けている。ひとつは、いうまでもなく「こんな決定をしたのは、そういう空気があったから」という否定的な認識である。これは『「空気」の研究』にいやというほど書かれている。しかし、日本人の空気に対する認識はこれだけではない。

同時に日本人が抱いているのは「この人は空気が読めない」という、軽蔑の念を含んだ、空気は読むべきものとする肯定的な認識である。実は、なぜこうした矛盾した認識になるのかについても、七平は多くの例をあげながら論じている。何よりもそれは、日本人が「頭の切り替え」を評価することにあらわれている。ほんの数カ月前まで国民玉砕を叫んでいた戦争指導者が、「頭の切り替え」によって平和と民主主義を唱え始める。しかも、それは宗教的回心のような深刻な精神的危機を通過せずに達成されるのである。

七平にとって空気の2つの側面のうち、どちらが鋭い分析と激しい批判の対象であったかといえば、私には後者であったと思われる。単なる空気への嫌悪を語るだけなら、サラリーマンの酒飲み話で十分だろう。そうではなくて、国家規模において、ある空気から別の空気への「切り替え」が何の痛みもなく達成されてしまう。それは七平にとって、何とか原因を突き止めたい奇妙な現象であり、何よりも戦わねばならない憎むべき敵であった。

こうした七平の『「空気」の研究』を読む者がこころすべきなのは、自分が空気を批判する正しい人間だと思い込むことを、常に「水を差して」回避することである。実は、この作品から得るべきものは、自分自身が新たな空気の担い手なのではないかという、自己懐疑によって全体を見直すという姿勢なのだ。そのことは、実は、この本の冒頭に「人は空気と水による心的転換を知るに至らねば、人の国に入ることあたわず」との聖書の言葉のもじりを掲げていることでも示唆されている。

もうひとつの問題は、はたして「空気」は日本社会だけに起こるのだろうかという、当然の疑義へと導くことである。あっさり言ってしまえば、空気は日本だけに起こるのではない。ただ、その表れが異なるだけではないかと、私は思ってきた。日本のアニミスティックな社会が空気を生み出すならば、欧米のキリスト教的な社会には原理主義的な暴走があるのではないか。それは簡単に指摘できるわけで、小さな集落に起こる「魔女狩り」から、国家をあげての「カトリック司祭虐殺」まで、材料に不足することはない。さほど経済力のない他国との戦争において「怒りにまかせて戦う」ような不思議な大国もある。

そして、七平はもちろんそのことに気がついていた。それが『「空気」の研究』の第3章であって、ここでは根本主義(ファンダメンタリズム)が扱われている。ただし、ここらへんは七平がキリスト教徒だったせいだろう、トマス・ミュンツァーの激烈なルター批判とその後の虐殺を取り上げながら、読者の「戸惑い」を予想するだけで終わっている。それがキリスト教あるいはプロテスタンティズムが陥りやすい、暴動や虐殺の「空気」を生み出してしまう原理主義だとは必ずしも論じていないのである。

国家をあげての「カトリック司祭虐殺」というのは、いうまでもなくトクヴィルが『アンシャンレジームと大革命』で取り上げた、フランス革命政府によるカトリック司祭および教徒の大虐殺のことで、トクヴィルは恐怖ゆえに情報が著しく偏る「沈黙の螺旋」という現象によって起こったと分析した。こうした過激思想による暴走を、「空気」と考えてよいかは微妙だが、比較の対象としては相手にとって不足はないといえる。

周知のように、この「沈黙の螺旋」はナチスの若き情報理論家だったエリザベス・ノエル=ノイマンによって蘇り、戦後も選挙投票の雪崩現象などの研究に使われ、さらに、マーケティング、広報、合意形成などに応用が試みられた。このノエル=ノイマンが若い時の経歴が暴露されたときには、激しい批判が起こったことはいうまでもない。しかし、この系譜の世論操作は、アジェンダ・セッティング理論などとともに、いまもひとつの「空気」醸成技術として実践が議論されている。

なかには、七平の「空気」を論じながら、自分たちが「正しい」ならば、こうした「沈黙の螺旋」に似た世論醸成、あるいは空気醸成も正当化されると考える人たちもいるようだが、それ以前に必要なのは、果たして自分たちは常に「正しい」のか、それほど完全なのかという、当然もつべき自己懐疑であるように思われる。

もちろん、七平においてもキリスト教のファンダメンタリズムには、かなり甘い見方をしていたというしかないが、その意味でも『「空気」の研究』はまだまだ多くの示唆と、未開拓部分を残したままである。そして、この作品を有意義に読むには、七平がかなりの部分までそうだったように、自分自身に対する疑念を維持することであるように思われる。七平については、また、別のテーマでも触れたい。

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