グローバルに対して国家主義でいいのか

 国会では今も、賃金上昇率をめぐるデータ変更が、政府の「偽装」ではないのかとの追及が続いている。ネット上でも安倍政権への官僚の「忖度」だと批判するブロガーもいれば、逆にこのデータは「アベノミクスの成果」だと主張する論者もいる。面白いのは、これが偽装や忖度なら、「もっと上手くできたはず」という説もあることだろう。  

 しかし、いずれにせよ公的な経済データが、あれほど不安定なものであれば、政府の統計だけでなく政策そのものに対しても、国民の信頼が揺らぐのは阻止できない。経済政策は公式のデータを基に提示され、その成果も公式のデータによって判断されるからだ。

 もっと言えば、そうしたデータを振り回している政治家や官僚、さらには諸制度への漠然とした信頼に依存して、政策というものは遂行されてきた。その信頼こそが経済の根幹なのである。では、こうした意味での信頼とアベノミクスとの関係はどうなのだろうか。

 いうまでもなく、アベノミクスには多くの制度上の改変や施行上の変更が含まれていた。なかでも「第一の矢」だったインフレターゲット政策には、「日本はこれからインフレになるので、いまのうちに消費すべし」というメッセージと、「そのために政府と日銀は手段を選ばない」という強い政治的決意が掲げられていた。

 ところが、インフレターゲット政策はまったく成功していない。インフレが消費を掻き立てるどころか、目標だった「2%のインフレ」もどこかに行ってしまい、さらにはインフレターゲット政策の「補助」として導入された「マイナス金利」などは、何ら効果がないだけでなく弊害だけが大きくなっている。

 アベノミクス全体にも言えることだが、とくにインフレターゲット政策には、奇妙なロジックが潜在していた。「これまで信頼していた通貨も制度も、壊せば壊すほど政策の効果が上がる」というものである。この政策の効果が上がるには、「円の価値は下落」して「日銀は物価に対して無責任になる」ことが肝要だったからである。   

 そんなバカなという人がいるかもしれないが、インフレターゲット政策の原案者である米経済学者ポール・クルーグマンは、多くの論文のなかで繰り返し、「円の下落を恐れるな」「日銀は無責任になれ」と言い続けた。つまり、「日本経済の信頼を取り戻すためには、(一時的にせよ)日本経済の制度の信頼を崩壊させる必要がある」と言っていたわけである。  

 しかし、私たちは経済制度(公的データも含む)を信頼しているからこそ懸命に経済活動を行う。改革とか改善が行なわれ、制度や基準の変更が行なわれても、ほぼ同時に制度への信頼が回復されねばならない。ところが、アベノミクスのようにひたすら改革という名の破壊が行なわれれば、国民の日本経済に対する信頼は回復しないままになる。

 最近、気が付いたことだが、アベノミクスを批判して提示される対案というのが、どれもアベノミクス以上に信頼を破壊するものなのだ。まだ国債に回っていない国民の金融資産を残らず財政支出にぶち込むとか、政府発行の通貨を導入すれば無限に予算を拡大できるとか、要するに既成の制度の信頼をもっと破壊せよということなのである。  

 これは言うまでもなく、信頼破壊のアベノミクスに対するリアクションに他ならないが、信頼の破壊という点でさらに上を行けば、論争に勝てるだけでなく諸問題が解決すると信じているようなのである。危機の時代に生まれがちな、馬鹿げた妄想である。グローバリズムに対抗するつもりで模索するうち、いつのまにか悪質なステイティズム(国家主義)に陥ってしまったのであろう。

  正気になって周囲をみれば、今や世界の株価が乱高下を繰り返している。報道では米中経済摩擦の余波にすぎないとのことだが、実は、米中および日におけるバブル経済崩壊の予兆ではないかと思われる根拠は多い。こうした事態の中ですべきことは、さらなる奇説や極論による制度破壊ではなく、国民の経済に対する信頼の回復ではないのだろうか。 (東谷暁 「通信文化新報」に寄稿したものに加筆してあります)

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