ウィリアム・ペティ;経済学を旅する(1)

ウイリアム・ペティ
『政治算術』
イギリスの未来を切り開いた貿易立国の国家戦略

もう15年以上も前のこと、教養をつけると称して1冊で100冊を読むというシリーズが何種類か書店に並んでいた。その類の本を刊行している出版社の1つが、わたしに『経済学の名著100』を書けという。ちょっと無理じゃないかと思ったが、いつもの妄想が生まれその気になってしまった。

幸運にして50人ほど書いたあたりで「100冊ブーム」が終わってしまい、出版社は何もいってこなくなった。残ったのは草稿だけだった。今回、このサイトで掲載することにしたのは、楽しんで読んでいただける人もいるのではないかと思ったからである。気軽に読んでいただければ幸いである。第1回はウィリアム・ペティの『政治算術』。不思議な人物による算術を用いた英国再建論である。

 大国の狭間でいかに独立すべきか

ウイリアム・ペティと聞いて思い出すのは、熟年の人たちなら「労働価値説の始祖」という、いまとなっては擦り切れた称号によってだろう。カール・マルクスが「土地が富の母であるように、労働は富の父であり、その能動的要素である」というペティの『租税貢納論』にある一文を、大いに褒め称えたからだ。

しかし、ペティの主著とされる『政治算術』(岩波文庫)を読めば、こうした称号はあまりにも狭く、誤解に導きかねないものであることがわかるだろう。ペティの経済に関する議論には、金や銀を富とする重商主義的な視点が色濃く残っているし、さらに労働だけが価値を創造すると述べているわけでもない。そもそも、この本は今でいう「経済」の本ではなく、イギリスの将来を構想する「国家戦略論」というべきものなのである。

ペティが『政治算術』を執筆した一六七一年から七六年は、イギリスの歴史が大きく変容を遂げていく時期にあたっていた。一六四〇年に始まるクロムウエルのピューリタン革命が終息し、一六六〇年にはチャールズ二世によって王政復古が実現。イギリスはオランダやフランスといった当時の大国に対峙してゆかねばならなかった。

とはいえ、ピューリタン革命やアイルランド征服によって国内は疲弊し、そのいっぽうで、オランダが貿易によって繁栄を極め、さらに、大陸の覇者であるフランスの脅威がイギリスに波及しようとしていた。当時のイギリス人の多くは、こうした危機に直面して、自国に対する自信を失いつつあった。

その後のイギリスを考えれば信じられないような話だが、七つの海を制覇した大英帝国といえども、最初から巨大な国土と強力な国力をもっていたわけではないのだ。ペティは「序」で次のように述べている。

「人間というものは、衰運に際会したり、自分の業務について悪い判断しかもてなくなると、……わが身にふりかかる災難に対して、一層精を出して抵抗しようとするどころか、その反対に、いっさいの努力を怠り、活力を減ずるばかりで、自分を救うことができそうな手段さえ、これを考えたり、講じたりしようとはしなくなるものである」

ペティは国民に対して「みだりに絶望」することを戒め、イギリスにはフランスに負けないどころか、この大国を凌駕する潜在力さえあるという。ただ、そのためには自国についての正確な認識が必要なのだ。その潜在力を描きだす方法としてペティが採用したのが、「数・量または尺度を用いて表現し、感覚にうったえる」という「政治算術」だったのである。

海軍力と海運力が小国を大国たらしめる

ペティは一六二三年に生まれた。初めは測量の仕事についていたようだが、ほどんど独力で医学、数学、工学を学んで国会議員にもなり、アイルランドの地主として、積極的な経営を目指した実業家でもあった。

すでに、二十歳代から旺盛な執筆を行なったが、「二十五歳以後ほとんど書物というものを読まず、ホッブズ氏流に考えていた」。そのお蔭で「多くのことを知り」、また「おおくの発明や改善をなした」と友人に述べているが、このまま額面どおりに取るわけにはいかない。ただ、それまでの教養である神学の文献などには、あまり積極的に手を出さなかったということだろう。

たしかに、ペティの文章は文献を駆使して書いたものというより、自らの観測や体験を手がかりに、統計資料と自らの推論能力によって組み上げたものだ。「ペティは終始一貫して理論家だった」(シュンペーター)と評されるゆえんだろう。思想史家たちは、ペティの方法論に、フランシス・ベーコンの影響が強いことを指摘している。

執筆の最中である一六七二年、第三次オランダ戦争が勃発し、イギリスはフランスのオランダ侵入に呼応してオランダに宣戦する。しかし、この戦争はペティにすれば唾棄すべきものだった。

イギリスはフランスに対抗するため、一六六八年、オランダおよびスウェーデンと同盟したが、国王チャールズ二世はこの三国同盟を喜んでいなかった。チャールズ二世はフランスのルイ十四世の従兄弟に当たり、しかも、王政復古後は国王の財政と国家の財政が切り離されたため、ルイ十四世に援助を受けざるを得なくなっていたからである。つまり第三次オランダ戦争は、国王の都合のために国家の政策を変更させるものだったのだ。

ペティは『政治算術』で、まず、オランダとフランスを比較してみせ、オランダが小国でありながら、海上交易と産業振興によって豊かな国になったことを例証。そのうえで「イングランドの利害と諸問題とは断じて悲しむ状態にあるのではない」ことを論じてゆく。

さらには、大陸国であるフランスは、自然的な制約によって海上ではイギリスより優性に立てないこと。イギリスの富および国力は、さまざまな比較を行なえばフランスと同等といえること。イギリスは国民収入の十%の課税だけで、一万の歩兵・四万の騎兵・四万の水兵を維持できること。イギリスは世界貿易を運営するために十分な資材を持っていることなどを述べつつ、「われわれはなにもそんなにフランスの強大な力を恐れる必要はない」と断言するに至る。

「小国で、しかも人民が少なくとも、位置・産業および政策いかんによっては、一層大なるものに匹敵するようになしうるということ、またそれには、航海および水運の便が、もっとも著しく、またもっとも根本的に役立つということ」

この視点こそ、海運力による貿易と海軍による海上支配によってフランスを凌駕しようと考えた、ペティ構想の中心を占めるものだった。この構想を、数量と比較によって組み立ててみせることが、本書の狙いに他ならなかったのである。

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