今週の女優 梶芽衣子

このページは、内海陽子の『女優の肖像 その1』から、毎週ひとりの女優を選んで文章を掲載しています。おなじく『女優の肖像 その2〉のページもごらんください。

秋山庄太郎『女優の肖像』より

 映画を見て登場人物に染まってしまう人間はいつの世も絶えることがない。その人物に似ても似つかぬ男が、たとえば肩のいからせ方ひとつで「高倉健」になる。サングラスのかけ方ひとつで「松田優作」になる。丸顔を長い髪で隠した二十代初めのわたしは、鋭い目つきをして「梶芽衣子」になった。

 映画という異世界の力は強烈で、やわな映画ファンはひとたまりもない。梶芽衣子の魅力がひときわ光る、『野良猫ロック セックス・ハンター』(1970・長谷部安春監督)では、彼女の特徴のある鼻のラインがやわらげられ、ふっくらした唇の美しさが際立った。わたしはパンタロンをはいて「梶芽衣子」になった。

 彼女のイメージを外国映画に探ってみよう。ユマ・サーマン主演の『キル・ビル』に、伊藤俊也監督の『女囚701号 さそり』(1972・伊藤俊也監督)で梶芽衣子が歌った「怨み節」が流れたとき、脳内に嵐が起こった。若い頃、すねた気分で抱きしめた梶芽衣子のハスキーな歌声は、クエンティン・タランティーノ監督によって世界に発信された。うれしい反面、恥ずかしくもあった。かつて「梶芽衣子」になった自分の野暮ったい姿がはっきり見えたからだ。

 一九九五年、梶芽衣子は、『鬼平犯科帳』(1995・小野田嘉幹監督)の演技で報知映画賞助演女優賞を受賞し、授賞式の舞台挨拶できっぱりと言った。「役者に定年はありませんが、リストラは常にあります」。雲の上の人だった梶芽衣子は、わたしと同じようにフリーで働くひとりの女性だった。いくらか落胆したが、その率直な物言いに好感を覚えた。

 人間、いくつになっても明日のことはわからない。運のいい日もあるが、舌打ちしたくなる日も多い。そう考えながら、梶芽衣子のイメージを追求すると『ジェイン・オースティンの読書会』(2007・ロビン・スウィコード監督)が浮かび上がる。五人の女とひとりの男が屈託を抱いて登場する。中でも、若い男に言い寄られてもそれと気づかない独身女性を演じるマリア・ベロの表情が魅惑的だ。血なま臭い役柄で人気を博した梶芽衣子だが、じつはこういう恥じらいを含んだ役が似合う。

 もう一作ある。おとぎ話『魔法にかけられて』(2007・ケヴィン・リマ監督)で、スーザン・サランドンは魔女を颯爽と演じたが、本当は『NOEL(ノエル)』(2004・チャズ・パルミンテル監督)で見せた独身女性のほうがいい。彼女の表情にも梶芽衣子に共通するものがある。クリスマスイヴの寂しさを噛みしめつつ、「ひとり」が似合う女は、言い寄る若い男の情熱をそっと退ける。彼女はかたくななのではない。世の中がわかってきたからこそ臆病になっているのだ。

 キャリアを重ねていっそう風情を増し、若い男たちを惹きつけ、その真心をくすぐらずにはおかない女。未来は謎に包まれていることを肌で知っているからこそ、恋にためらう女。そういう女たちの心情を、いま、梶芽衣子こそが表現できるはずである。髪を長く伸ばそうとパンタロンをはこうと、もはや自分に魔法をかけられなくなったわたしも、また「ひと夢」見られるかもしれない。

(2008・6)

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