今週の女優 桃井かおり

このページは、内海陽子の『女優の肖像 その1』から、毎週ひとりの女優を選んで文章を掲載しています。おなじく『女優の肖像 その2』のページもごらんください。

秋山庄太郎『女優の肖像』より

「彼女は人形遊びが好きそうなタイプなんだよ」と、桃井かおりと共演したある俳優が、感想をもらしたことがある。そう気軽に遊べる仲間にはなれなかった、というニュアンスをそのとき感じ取った。

 俳優同士、相性は多様だろうから、その発言だけで安易に決めつけることはできないが、わたしには妙に納得のいくものがあった。人形遊びをしている、孤独な少女の姿が目の前に浮かんだ。

 端正で正統的な演技術から奔放に遠ざかり、独特のせりふ回しや、わざと顔や姿勢をくずす露悪的な演技方法で一世を風靡した桃井かおり。一九七〇年代初頭から、彼女はさっそうたる時代の子であったが、その本領を発揮するようになったのは一九七〇年代が終わるころからだろう。

『もう頬づえはつかない』(1979・東陽一監督)と『神様のくれた赤ん坊』(1979・前田陽一監督)という2本の映画に主演した桃井かおりは、若い娘の疲れのたまった肉体の重さを感じさせ、もう若くはない娘たちの心に寄り添った。そのいっぽうで、彼女の孤独の影は、年輩の男性の琴線にも触れたようである。

 それは、負けん気のようでいて意外にラフに心の弱さをさらけ出す、桃井かおりのライフスタイルが愛嬌になり、特有のエロティシズムを醸し出したからだ。彼女が四十代半ばになったときに『東京夜曲』(1997・市川準監督)に主演、夫を亡くした女に扮して、寂しく静かな美しさを見せた。しかしその役柄とは裏腹に、わたしは彼女の横顔に非常なたくましさを感じていた。桃井かおりの五十代はさぞや見ものだろうと思った。

 そして二〇〇七年、まさに見ものというべき映画『無花果の顔』(2007・桃井かおり監督)の生みの親として、彼女は堂々たる「人形遊びが好きな少女」の横顔を見せる。原案と脚本を手がけ、主演の山田花子の母親として出演する彼女は、ある一家の中心人物としての自分自身を、現在から過去にそって執ように愛でるのである。

 凝ったしつらいの古い日本家屋の縁先に横たわり、美しい腰から脚までの姿を見せる母。これを娘役の山田花子の目線でとらえたなら、また違う風情もあったろうが、彼女はどうしても自分自身の目線でとらえないと気がすまないようである。それが数度繰り返されると、自分によく似た人形を玩弄する少女の真剣さが浮きあがる。これこそが桃井かおりだ。孤独な少女とは、周囲がいたわり守るべき存在ではなく、むしろ感嘆の目で崇めるべき強靭な存在なのである。

 桃井かおりは、絶対に捨てられない人形を大事に抱えて生きている。こういう監督=主人の指揮下に置かれて、いくぶん不安げな表情の山田花子に引きかえ、演じる桃井かおりの夫に扮する男の人形たち、石倉三郎と高橋克実は、意思ある人形ならではの好演を披露して主人の顔を立てる。少女は幸福に生き続けている。

(2007・1)

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